映画という広告

「実写化決定!」という謳い文句を何度見ただろう。

去年辺りからだろうか、マンガの実写化が増え始めたのは。

数字を取ったわけではないので、どれぐらいマンガの実写化が増えたか等々はわからないのだけれども、恐らく皆増えたと感じていると思う。

銀魂」を映画化は驚いた。

ジョジョ」も驚いた。

「斉木」は、まあ、やるんだっていうか。

ともあれ、集英社の勢いが止まらない。

 

マンガを実写化する時には必ずと言っていいほど、原作ファンからの阿鼻叫喚が漏れる。

「原作の世界観が壊れる」だの「再現できない」だのと実写化が決まった時点で不満が溢れるのはよくあることだ。

ただ、その意見はいわば受け手としての意見でしかないわけである。

出版社の側から考えてみると、実写化も含めたメディアミックスにデメリットはないように思える。

実写化映画の内容がどうあれ、実写化された時点でもう成功なんじゃないか。

 

マンガにとってメディアミックスはもはや日常茶飯事で、さもなくば業界を生き残れないのではないかと思われるほどの定石というか、目指すべき場所という感じである。

人気が出たらアニメ化(後に映画化)、小説版やファンブックの刊行、ドラマや映画で実写化というのはメディアミックスの定番である。

その進展度合いによってその作品の人気度が測れると言ってもいい。

そこまでメディアミックスを重視するのはなぜか。

それは「作品の知名度を上げる」ということで説明がつくのではないか。

 

出版社における第一義の目標は当たり前だが本を売ることだ。

雑誌が売れて単行本が売れて会社も作家も儲かるのであればもうそれで十分といっていい。

宣伝などせずに売れるのであれば尚良い。

しかし、そこまで甘くないのが出版社を取り巻く状況だ。

雑誌の売上は落ち込み、何もしなくても売れる時代はとうの昔だ。

本を売るためにどの会社も四苦八苦している。

内容の充実を図ることはもちろん、如何に知らしめ興味を抱いてもらえるか、つまり宣伝にもとりわけ注力してきたはずだ。

その宣伝の1つとしてメディアミックスが選ばれているというわけだ。

 

宣伝は「今まで作品を知らなかった人に対して」知らしめることに意義がある。

マンガ好きの人には知られていてもそれだけでは小さい。

もっとマンガ好き以外にも作品の存在を知ってもらい、手に取ってもらうことを目的としているのである。

 

メディアミックスされているということは人気があることの裏返しである。

つまり、メディアミックスされたことをアピールすることで、受け手に作品の人気度を知らしめているのである。

帯やポスターに実写化を堂々アピールする。

それを見た受け手はその作品について大した情報がなくても「実写化されるのだから面白いのだろう」と勝手に結びつけてくれる。

そして、本を買ってくれれば、メディアミックスの効果アリということだ。

 

銀魂」の作者も「劇場版 銀魂」に際して寄せていたコメントにも見られたが、「作品を多くの人に届ける」ことがメディアミックスに可能だということだ。

マンガ好きの人に留まらず、より大衆に届ける力がメディアミックスにはあるのだろう。

作者には作品使用料しかお金が入らないというが、メディアミックスによって本が売れ、その印税分で結局プラスになるという考えをしてるのかもしれない。

いずれにせよ、出版社にとってメディアミックスは本を売るための宣伝手法の一つであって、話題性を出すことが何よりも求められるのではないだろうか。

作品使用料が安すぎるとか愛のある映画化を!とかはまた別のお話。

二つの仲間

「敵と呼ぶな」

高校生の頃、所属していたサッカー部の顧問がよく口にしていた言葉だ。

「相手がいなくては試合はできない。だからこそ、リスペクトや礼儀を忘れるな」

という意味合いだった。

 

競技人口1人しかいない競技などありえない。

必ず自分ではない誰かと競い、順位を争うものだ。

「敵」と呼び、「敵」を倒して再起不能にして追い出してはその競技が立ち行かなくなる。

「相手」とは一緒に競技をする仲間のことだ。

その仲間と切磋琢磨し、成長しようとする。

仲間を意識することで、強くなろうとする。

「相手」のいない競技など、ないのだ。

 

そして、当然仲間は「相手」だけでなく、味方にもいる。

仲間のために勝とうとする。

自分ひとりでは出せないものを仲間のためにという思いの下に引き出そうとする。

それは個人戦においても、自分の味方でいてくれる存在に報いようとする意識がまた力を引き出そうとする。

同じチームの味方だけでなく、家族、友人それらも仲間だ。

仲間がいることを自覚したとき、個人戦からチーム戦へと変わる。

「ひとりじゃない」とはそういうことだ。

 

ちはやふる33巻の新はまさしくそれを体現した存在でなかったか。

志暢、千早という「相手」たる仲間と、藤岡東高校という「味方」たる仲間という、2つの仲間を自身の力に変えた新。

対して、「味方」たる仲間を持たず、絶対的な強さから「相手」たる仲間を持てずにいた志暢。

明暗をはっきりとつけるこの2人の対戦、新の勝利は必然であったのかもしれない。

2人を分かつこの差異に敗北を通して自覚した志暢の悲壮は計り知れない。

もはやひとりではこれ以上のモノは望めないから。

 

それでも、この物語には救いが溢れている。

名人位に君臨する周防、元々意識していた新に加え、彼女を一方的に意識し食らいついてくる千早を志暢は「相手」として受け入れたこと。

練習会に参加することで「味方」を増やす決意をしたこと。

これらが志暢をまた強くさせるのだろう。

 

そして、かっこよすぎた肉まんくんもいつか、報われますように…

どこを切り取るか

映画。

一般的に長編映画の時間は2時間前後だ。

果たして長いか、短いか。

 

四月は君の嘘」が実写映画化。

正直、眉をひそめた。

配役に関してもだが、このストーリーを映画に収められるのかと。

この作品、マンガは11巻、アニメは22話(+OVA)なので本編20分×22として440分=7時間20分。

全部映画化しようとするには無理がある。

ごり押しで詰め込むか、要素を切り出して単純化するか、オリジナルな展開を混ぜるかの選択が迫られるが、基本的に原作を切り出して一通りストーリーをやり切ることが選ばれていた。

 

しかし、この作品は結構密度があるというか過不足がない。

サイドストーリーといった「読まなくても本編の理解には影響がない」という話があまりない。

どの話も大体、本筋のストーリーに関係してくる。

話が脇道に逸れることがないので、初めから終わりまで筋を通すためにどこを切り抜くかは相当苦心したはずだ。

 

まず、登場人物が絞られた。

出てくる人物は公生、かをり、渡、椿(+紘子、公生ママ)ぐらいなものだ。

柏木は映画の中では名前すら明かされないし、相座兄妹、絵見、三池は当然出てこない。

先輩も出てこないので椿が付き合うくだりも無し。

それでも、元々この主要人物だけで作られてる物語なので十分長い。

どのエピソードを減らすか。

そもそも公生とかをりの二人に注目するだけでも

出会い→かをり演奏→二人で演奏→公生コンクール→愛の悲しみ→くる楽祭→東日本コンクール→死別

と演奏シーンが多い。

演奏シーンは2人、特に公生にとっての転機となる場面ばかりなのであまり減らすことは考えられないし、音楽を通しての物語であるので音楽を描かないわけにはいかない。

実際、減らされたのは公生のコンクールとくる楽祭だった。

 

映画ではやはり公生とかをりの二人によりフォーカスをあてた物語にされていたように思えた。

それ以外の要素は極力排除していたようだが、椿の処遇は中途半端になったように思える。

椿が公生を意識する描写が少なく、告白が突然のように感じられたからだ。

原作では先輩と付き合い、破局することを通して椿は公生への思いをハッキリと自覚していくのだが、映画ではそもそも先輩がいないのでその過程は描けない。

突然のかをりの登場に公生の隣が奪われることに思わせぶりなシーンはあったが、公生家にいるかをりを見つけた場面と柏木と話す場面ぐらいではなかったか。

だから、告白が突飛に感じてしまったのだと思う。

 

四月は君の嘘」は恋愛マンガだ。

音楽は大きな主題の一つではあるが、あくまで音楽は媒介であり、公生とかをりの物語であるように思っている。

だから、極端な話、この二人がいれば物語としては大きな破綻はなく成立するのではないかとさえ思う。

ただし、渡と椿の二人も重要な人物であって、椿は公生が好き、公生はかをりが好き、かをりは渡が好き、というようにこの片思いの連鎖が物語を動かしていくのだ。

公生はイケメンでスポーツができてモテてかをりにお似合いの渡を羨ましく思っている。

公生は恐らく美人で華があるかをりに自身は似合うだろうかとコンプレックスを抱いているのだろう、と自分は推測している。

だから勝ち目がないと思っていたはずで、公生は頑なにかをりのことが好きだと認めたがらなかった。

ただ、公生に自身の気持ちを自覚させたのは椿であり、公生は渡にかをりが好きなことを表明する。

この渡への公生の表明の階段のシーンは原作ににおいては渡が上、公生が下にいるのが象徴的で、公生にとって渡は(とりわけ恋愛面では)あはまりにも眩しい目上の存在だったことを表しているように思える。

それなのに映画では二人の位置が逆になってしまっていた。

そもそも公生を山崎賢人が演じている時点で、そんなコンプレックス抱きようがないだろとか思ってしまうものだ。

公生もイケメンじゃあ、渡に対して引け目感じようがないでしょうと。

 

こう考えるとやはり渡も椿も原作の展開ではやはり重要な役割をもつキャラだ。

それでも2時間に収めることを最優先にして公生とかをりにより重心を置いた作品にするならば、思い切って渡と椿の役割を削ることも一手だったように思う。

椿の片思い設定は無くしてしまって、生じる齟齬を修正することで原作の入りと結末は描けたのではないだろうか。

やはり物語全編を描くには2時間では短すぎたのだ。

 

前後編だったなら可能性もあったように思うが。

そこは予算等々、現場にしかわからないこともあったのだろう。

 

それにしたって、湘南を舞台にした理由はちとわからないままである。

何様

就活のバイブルにしていた「何者」。

そのアナザーストーリー6篇を納めた「何様」が8月の終わりに発売された。

楽しみにしていたが、思ったよりも早い。

「何者」の映画公開に合わせた発売日にするのかと思っていたのだけど。

単行本で割高だからそこまで売り上げにポジティブな影響が出ないと判断しての事だろうか。

文庫本なら安いし公開に合わせて発売すれば、映画と文庫双方の宣伝になり売れるだろうと考えたが。

一篇大体、50ページ。

 

まず、「水曜日の南階段はきれい」。光太郎の話。

光太郎が出版社に拘る理由は、海外の大学へ進学した好きな人が翻訳家になろうとしていて出版社に入れば再び会えるかもしれないからというのは「何者」で既に明らかになっていた。

その「光太郎が好きな人」とのエピソード。

夕子さんの夢に対する思いの強さと光太郎への思いの奥ゆかしさが愛くるしい。

誰にも言わずその夢を大事にしながら努力を続けられる強さ。

光太郎のゲリラライブを見る口実として掃除好きな人として振る舞う少女らしい気恥ずかしさ。

最後の卒業文集に書き残す光太郎へのメッセージが前向きだけどやるせない。

こっそりライブを見てしまうくらい好きなのに、そんな好きな人に勉強を教えるようになり、一緒に掃除するようになったのに、手を伸ばせば届く距離にいる好きな人を振り切ってまで夢をかなえることを選択した夕子さんの芯の強さがどうしようもないほど切ない。

彼女の生き方が「何者」における光太郎の出版社へのこだわりの強さにつながっている。

「何者」において光太郎は「夕子さんと再会するために出版社へ入社する」という「夢」を瑞月にしか語っていない。

高校生の頃とは異なり、外に固められる必要がないほど明確な夢ができていた。

本当、主人公を演じられちゃうキャラクターだ。

それにしても夕子さんを探し走る光太郎の描写が儚い結末を予感させる。

思いが溢れてくるリズム、切実さが痛々しいくらい伝わる。

手紙と地の文が交差する文章は、「何者」で瑞月が拓人に電車の中で家庭のことを語るシーンを想起させた。

読者の感情を徐々に徐々に揺さぶっていくのが本当に上手だ。

 

誰の話か言われなくてもわかりそうなタイトル「それでは二人組を作ってください」。

隆良も出るが、理香の話だ。

タイトルから嫌な予感がしていた。

理香に限らず自分にも当てはまる話だからどうもずっと心がざわざわしていた読み心地だった。

二人組を作るのが苦手。

部活仲間がいなかったら果たして自分はどうしていただろうか、背筋が凍る。

それにしたって中々ルームシェアを切り出せない理香の姿は不器用でもはや哀れだ。

 

「逆算」

誰の話かと思ってたらサワ先輩。

名字は「沢渡」だったのか、自分が忘れていただけか。

締め方にふっと安心できる笑いが出る。

結末の出来事がもしかしたら松本さんの「何かの」きっかけになるのかも、なんてのは考えすぎか。

 

「きみだけの絶対」

人によって何を拾うか、何を捨てるかは異なる。

その違いの存在を認識させ、あの人は何を大事にしているんだろう、お互いを想像し理解することで優しくなれれば、そんな思いだろうか。

まだまだ読み取り切れていない気がする。

正直、あまり釈然としていない。

 

「むしゃくしゃしてやった、と言ってみたかった」

読んでいてつらくてしかたがなかった。

正美の姿がほぼ寸分たがわず自分の姿と重なっていた。

正しいとされていることに忠実に従っていたけど、それでよかったのだろうか。

正しいはずなのに報われない。

正しくない人の方が評価されている。

そんな葛藤や疑念でいっぱいになってしまい爆発してしまう正美を、田名部を見ていられない。

自分がやりたいことよりも、(自分で推測した)親の期待を優先してきたのに、実際は親から喜ばれていないのではないか。

自分がしてきたことは無駄だったと分かってしまったとき、その絶望は想像を絶する。

田名部にしても「いい人」であることを「周りから」求められてきたのだろう。

他人から押し付けられる「田名部さん」の像に自分を押し込んできた苦しみが見える。

どちらも、逸脱してみたいという欲求を外部から封じ込められてきたのだろう。

しかし、その逸脱が許されるのは子どものときまでなのだ。

大人になってからでは、付随する責任が大きすぎて、遅い。

後で思い返す、田名部という名字の人物。

瑞月は誰が救ってくれるのか。

「目の前の男の舌を吸った」

なんて生々しくてどろどろしていて欲望にまみれているのだろう。

 

「何様」

眉毛カッターの彼。

拓人の隣にいた、笑いをとりまくってた彼。

そんな克弘は人事に配属され、誠実さとは何かを考える。

大した理由もなく入社した自分が、学生を取捨するなんて「何様」なのかと。

確かにまっとうな、自分に根ざした明確な理由をもって入社を希望する人がいるにも拘わらず、決してその人が内定をもらえるわけではない。

そんな人はかなり誠実な気がするのに。

 誠実であるためには。

「誠実への一歩目も、誠実のうちに入れてあげてよ」

悩む克弘を、救う言葉。

いきなり100%なんて無理なのだ。

誰だって最初は初心者。

サポーターの真似事をする初心者をにわかと蔑む自称サポーターにも聞かせたい一言だ。

 

どれにしたって軽い気持ちでは読めない話だ。

朝井リョウは「何者」のときから、人が見て見ぬふりをしたい、後ろめたい感情や思考を引っ張り出して提示して「お前もこうなんだろう」と脅迫してくる。

おかげで自分の心の中に封じ込めていたものと対峙せざるを得なくなってしまい、読後はすっきりしないことも多い。

それでも、最後の君島の言葉はそんな人々に小さな救いをもたらす気がしている。

横浜ロマンスポルノ '16 ~THE WAY~

2年ぶりの横浜スタジアム。1日目。

雨予報に反してきつい日差しが肌を刺してくる。物販の列を探すと噴水付近に看板を持って立つスタッフを見つかる。そこから前を目で辿ると、思わず眉をひそめたくなった。階段横まで伸びた列は折り返してGATE7手前でまた折り返し階段の先へと続いているようだった。何か別の列かと思いたかったがそうでもないらしい。15時30分に並び始めたが開始に間に合うのかと心配で仕方がない。

開演まで30分を切るとちらほら列を離脱する人が出てきて前へ流れるようになったのだけれど、途中で入場待機の行列とぶつかり大混雑。物販の列だと思ってたら入場列になっていて、慌てて列を探し直し並んだところで物販列を締め切られた。ギリギリ。ちなみに並んでいる最中に虹が見えた、東横インの上空。結局、17時過ぎて購入完了。急いで席に走る。

席はスタンドBAY SIDE。席に辿りついたときには小雨がぱらぱらし始めていた。案の定というかやっぱりなというような空気が漂っていたような気がする。まだ演奏は始まっていない。スタッフが楽器の調整をアリーナ席ど真ん中のステージでおこなっていた。PA上のステージは二年前と同様だが、トロッコはないようだ。TシャツはLサイズでも結構大きい。

17時15分。始まりの合図。どのように二人は登場するのか。ステージに真ん中に後ろにと探していると、歓声が沸く。PA席後ろから歩いて登場。さながらリリーフ投手のよう。昭仁はライト側、晴一はレフト側から歩いて真ん中のステージへ向かう。昭仁の赤い上着がカープのユニフォームに見えないこともない。晴一は真っ黒ノースリーブ。

一曲目、「ハネウマライダー」。昭仁の声と晴一のアコギだけでライブが始まる。「横浜ということで」2曲目、「横浜リリー」。ところが早速最初のサビで歌詞を間違える。そんな昭仁のことを途中から辿りついたサポートメンバーがニヤニヤしながら見ていた。くわG、真助、康兵が加わり「サウダージ」。真助が立ちながらドラムを叩く姿が新鮮でかっこいい。昭仁もシェイカーを揺らしながら歌う。「9月とはいえまだ暑い、彼らのコーラスで夏を感じていきましょう」と康兵やくわG、晴一が歌い始める「NaNaNaサマーガール」。「この3万人が一緒になる光景を見たい、みんなの歌声を響かせてくれ」と「アゲハ蝶」。アコースティックはここまで。

すると、ステージから森男、nang-changの演奏。その演奏の間にメンバーは前のステージへ移動。前5曲の余韻を吹き飛ばさんとする「敵はどこだ?」が炸裂する。ステージ上のモニター映像が凝っていた。その熱量を持ったまま「2012Spark」「ミステーロ」。一気にボルテージを上げてきた。

MCでは触れられずにはいられないのだろうカープの話題に。「カープが強いね!DeNAの本拠地なのに申し訳ないけど!」。それいけカープのビデオ撮影のエピソード。晴一はポルノでは見せないテンションで歌い、叫んだらしい。それを見たければズムスタに行くしかないらしい。見たいと観客にせがまれるも結局そのテンションの高さは見せてくれなかった。カープの話ばかりしても仕方ないから、とベイスターズ広島県出身・石田投手の入場曲がアポロであることを話す晴一。横浜スタジアムに観戦に訪れた際、石田投手が先発でアポロが流れた際は誇らしげになったらしい。雨について、晴一は「直前まで晴れていたのに、なにこの思わせぶりな感じ。ウォータープルーフのギター探そうかな」とぼやく。昭仁もリハで日焼けしたらしい。

康兵がアレンジしたという「ルーシーから微熱」、途中の電子声は晴一が担当していた。「ギフト」と続き、「久しぶりにやります」という「EXIT」。「愛が呼ぶほうへ」の後の「My wedding song」はモニターに流れるアニメーションビデオがNHKで流れてもおかしくないような優しい雰囲気をもっていて印象的だった。

「シスター」を彷彿とさせるドラムロールから再び真ん中のステージへと移動。同時に衣装チェンジ。昭仁の上着は黒へ、晴一はグラサンにライダースジャケット、その姿に笑い声が起きる。ギターが届くまで時間がかかり、その間晴一はエアギターを披露していた。いつもよりロックンロールに、と「ヒトリノ夜」へ。森男はコントラバスを弾いていた。いつもとは異なるアレンジ、それでもいつものような盛り上がりで「Mugen」。ステージに戻り、タオルを回して「Ohhh!!! HANABI」。手拍子を伴い「オー!リバル」。2曲余も掛け声が前回のツアーより揃っていて大きかった。畳みかけるように「メリッサ」テープが飛ぶ。ラジオジングルが流れて「久しぶりにやっちゃうよ!」「ミュージック・アワー」。

暗転し、昭仁が照らし出される。感謝と所信表明。満を持して「THE DAY」。観客が腕に着けたシンクロライトが光り出す。そういえばColdplayが似た演出をやっていたはずだ。テーマカラーである青や赤、白、黄と一帯が一色に染まって変化していく景色が壮観だった。曲の終わりと同時にモニターへTHE DAY」と文字が浮かび上がる。ここまでできるのか。夜空に何か飛んでいたのが見えたけど、ドローンだったらしい。

アンコール。昭仁もギターをもって登場。「新曲やります!」タイトルは「LIAR」。どこかラテンのリズムを感じさせる曲。LEMF1999以来の「エピキュリアン」。メンバー紹介。野崎兄弟がアルバム出したことに触れる昭仁。森男が何か叫んでいた気がするけど、なんて言ってたんだろう。「買ってねー!」とかかな。ラスト一曲「ジレンマ」。統率感のないライトの色が曲の騒がしさ、ハチャメチャさに拍車をかける。そのまま終わってしまって「あれ、PA席ステージ来てくれないのか」とちょっと拍子抜けしていたところだったけれど、お辞儀した後に、「ごめん、忘れてた!後ろ行ってないから今から行くわ!」

そう言って歩いて移動しPA席ステージへ。晴一が渡されたギターがプロデュースグッズのギターに見えたけどどうなんだろう。音量調整に時間をかけて「16年前に作った曲で、初心を忘れないように」と何を演奏するのか、アポロではないのか、と考えていると演奏が始まる。「ダイアリー00/08/26」!「サボテン」のカップリングをライブ最後に持ってくるとは!正直歌詞思い出せるほど聞いていなかったけど、これはこれで大団円のような雰囲気でラストに合う曲だと感じた。

終始、雨が止むことはないライブではあったけど、ポルノらしいなと思ってしまった。シングル曲ばかりのセトリはやはり単発ライブだから観客の間口を広めることを考えてのことだろう。そこにアレンジや演出で変化をつけることでコアファンにも楽しんでもらえるように作られていたんだと思う。ちなみに最後の「後ろ行くの忘れてた」は2日目もあったらしいのでどうやら演出っぽい。特にシンクロライトは屋根がないスタジアムならではの演出で、今後も見たいと思わせる取り組みだった。これからもどんな新しくチャレンジをしていくのか楽しみ。

雨はスタジアムを出ると止みました。さすが。

評価の答え合わせ、迎合

直木賞に輝いた「海の見える理髪店」。

短編集らしいし手にとってみた。

最近、長編に挑む気力が中々湧かないもので、短編集ならサクッと読めちゃうかなという魂胆。

 

いつからか、物語を読んでいると感情移入しすぎるようになった、気がする。

登場人物の状況に自分を置いてみてどう感じるかをしばらく考えるようになった。

それをつまりは余韻と呼ぶのかもしれないけど、そのせいで読後もかなり感情が引っ張られて戻ってこなくなることがままある。

特にそれは切ないストーリーに顕著で、読んだすぐ後にアップテンポの曲とか聞けない。バラエティ番組とか見られない。

とにかく浸って中々乾かない。

 

この作品の各話を読み終わった後も、自分の内面がじんわりと切なさや儚さ、少し見える希望に濡れていくような感覚を味わった。

どの話も心を持って行かれてしばらく当てられるように、何かを残していく。

短編集とはいえ、読後の各話の存在感は際立つ。

短編であることが、内容の薄さに結び付けられるわけではない。

 

そんな作品が直木賞に選ばれたわけだが、読み終わってから改めてその事実を鑑みると肩透かしを食らった気になる。

おこがましいのだけど。

自分の中で直木賞とは、テクニカルで、ストーリーテリングに優れていて、構成が練られており、要するに技術的に優れた作品に贈られるものだというイメージが形成されていた。

何を技術と定義するかはイマイチ説明できないけれど、「何者」や「容疑者Xの献身」といった過去の受賞作を見てそういう印象が築かれている。

「海の見える理髪店」はそういう技術的な要素があまり見られなくて、短編集であるが故か1つの技術が大きな驚きを産まなかったという感触がある。

もちろん前提として自分はまだまだ文学見習いもいいところであって、凄みをただ感じ取れなかっただけという可能性がある。

 

いや、そう捉える他ない。

 

直木賞選考委員は宮部みゆきなどといった著名な作家さんで構成されている。

確かな目がある人たちが選んだ作品が優れてないなどと声を大にして言えるだろうか。

所詮、自分は大した眼力も読解力もないペーペーである。

そんな自分が大作家陣に対して「お前らも大したことないな」なんて言えるわけもなく。

見落としがあるのだろう、おれの見方が悪かったのだろう、そういう方向へ思考が向くのは当然だと思っている。

(文学に間違いも正解もないかもしれないが)間違っているのは自分だと、そう解釈するのが自然だと。

委員会の評価は絶対。

それに賛同できない自分は間違っているのだ。

だから、委員会の方々に文句を言おうなんて、そんな、滅相もない。

まだまだ精進します。

 

これから先、もし、その絶対に楯突こうと思えた時は、その時は、自分なりの評価基準が定まった時と言えるのかもしれない。

カテゴライズ

竹宮ゆゆこ著「砕け散るところを見せてあげる」を読んだ。

とらドラ!」を書いた人らしい。

カバーイラストは浅野いにお

帯の推薦文には伊坂幸太郎と市川沙耶。

レーベルは新潮文庫nex

どうやらライトノベルではないらしい。

 

東京駅の三省堂書店での推されようを見たときには、ライトノベルだと高をくくったものだった。

イラストカバーにライトノベル上がりの作家。

判断材料はそれだけだったけど、ライトノベルを大して読んだことのない人間がそう思ってしまうには十分だった。

長いタイトル、特徴的すぎる登場人物の姓名、イラスト…

大体このあたりを見ると「ラノベっぽい」と感じることが多いかもしれない。

だからこそ、ライトノベルが一般の文庫と同じ棚でここまでプッシュされるものだろうかと不思議に思ったのだった。

 

サイトを見てみると、新潮文庫nexというレーベルはライトノベルではない、と新潮社は言っている。

若者向けではある。

だが、それでもライトノベルではないと主張している。

イラストカバーでライトノベル上がりの作家を起用してはいるけど、ライトノベルではないのだと。

果たしてライトノベル、とは何なのだろうか。

ライトノベルというカテゴリーは、どのように分類されているのだろうか。

 

上記の要件や内容まで考えてライトノベルか否かというのを論じることはできるかもしれない。

しかし、今回の場合このカテゴライズは出版社側の主張するものであるということを注視せねばならない。

掲載雑誌やレーベルで対象読者層を限定するというのは今に始まったことではない。

少年誌があり、青年誌があり、少女誌があるようにマンガの世界ではごく当たり前のことである。

ライトノベル新潮文庫nexも同様のことが当てはまる。

小説というのはどこか堅苦しい印象を受けるせいか少年少女たちには敬遠されがちなのではないか。

だから、その子たちに読んでもらうためにライトノベルと謳い、手に取るハードルを低くする。

イラストをつけて、キャラクターを特徴的にして、会話を多く、かっこよく(偶にイタイタしく)したり。

ライトノベルは若者の読者層を想定した、マーケティング戦略といえよう。

 

そんなライトノベルという語はもはや一般世間に浸透して久しい。

おかげでライトノベルは固定的なイメージがつきすぎてしまった。

同時に固定観念もある程度染みついてしまっているように思える。

ライトノベルはオタクが読むものだ」というように。

このようなイメージがつきすぎると、読者の選別が勝手に起きてしまう。

オタク文化はまだまだ大衆文化ではないだろう。

ライトノベルと呼ばれている本を手に取ることにはネガティブな感情が付きまとうだろう。

ライトノベルというカテゴリーはより大衆向けの作品には合わないものだ。

 

だからこそ、新潮社は新しい若者向けのレーベルを打ち出したのだろう。

新潮文庫nexはより大衆寄りの若者に向けている。

推薦文のラインナップを見てもそれが見て取れる。

ライトノベルはもはや若者向けではない、ライトノベル好き向けのカテゴリーだ。

だからこそ、ライトノベルではないと口を酸っぱくしている。

ライトノベルほど、読者層を狭めないために。