諦める

卒論が終わった。

提出締め切り1日前に提出して、やけにすっきりとした気持ちになった。

苦戦したのは「やりたくなかった」のが大部分だけど、それ以前に「どうしてよいかわからない」というのもあった。

聞き取り調査はした。

けど、そのデータをどう読み取ればいいのか。

いわゆる分析視点に欠けているというやつで、そんな状態じゃあ進むわけもない。

後がなくなり、先生に視点のヒントを貰ってからは、一気に書き上がった。

結局、分析視点、「どう読むか」という枠組みが大事だった。

 

それは学術論文に限らないことで、小説にも当てはまると思う。

どのような物語か、テーマは何か、それを明確にするだけでかなり読みやすくなる。

何を見るかを決めなければ、焦点が定まることはないのだ。

三田誠広の「春のソナタ」を読んだが、焦点が定まっていたので読み解きやすかった(気がする)。

「僕って何」で芥川賞を取った作者だが、この物語も結局、「僕って何」なのだ。

 

春のソナタ」も「自分とは何か」というアイデンティティの確立を目指していく話なのだと、そう考えて(決め打ちして)読むとほとんどの文章の意味が腑に落ちていった。

自分の将来をイメージするときって、必ずや親の存在を意識せずにはいられないのではないかと思う。

サラリーマンの親だったら、まずサラリーマンになる自分を想像して、そこから反抗したり、受け入れたりして、自分を水路付けていくのではないかって。

父が音楽家で、自分も音楽をやっている。

そうした状況では音楽を職業とした道を考えずにはいられないはずで、でもそれは嫌だとも感じている。

そんな中で、音楽家や大学の教授といったキャリアだけではない、音楽に関連した職業につくキャラクターが多数でてくる。

バイオリン奏者ではあるがロックバンドに所属する四条であったり、早苗の取り巻きの男性陣はいずれも奏者にはならずに音楽事務所や雑誌の編集者といった、音楽関連の職業人だ。

音楽を離れる選択肢も示唆される。

直樹は柔道もそれなりにできる。

本腰を入れればその道に進むことだって出来るかもしれない。

作中の大人はすべて、将来の直樹の姿であるように思える。

曽根にしろ瀬田にしろ須藤にしろ、すべて未来のサンプル像。

様々分岐していくと、彼らに行き着くことになる。

その分岐点に直樹は立っていることを初めて自覚したのだろう。

どの方向に行くか、多くの選択肢が提示されている。

 それを選ばなくてはいけないし、諦めなくてはいけない。

選択肢が多いのは豊かだといえるかもしれないが、幸せかどうかはわからない。

選ぶことは、翻って諦めることでもある。

諦めてしまえばその道には後戻りできない。

選択とは辛いもので、自分の限界と無力さを噛みしめることにもなるし、人生が一度きりであることに恨めしくもなる。

 

直樹がどことなく、醒めてるのは自分の将来がこのままだと音楽に行き着きそうだが、父を見る限りそれはとてもいいものだとは思えず、その道に決めてしまうことに漠然とした不安を感じているからではないかと思う。

父と同じ人生を過ごすことには勘弁だという意識がある。

でも、他の選択肢にも興味を持てていない。

音楽以外の選択肢は作中では柔道しか挙げられていないし、勉強にも力が入っていない。

そんな中で、直樹が積極的になるときがあって、それは早苗が関わっている。

そして、早苗は直樹の向こうに父である春樹の姿を思い描いていたのだろうか。

早苗のことを直樹はどう見ていたのだろうか。

 

最終的に、直樹は決断をしている。

決断とは決めて断つことで、この道と決めて、他の道は断つことだ。

直樹はどうやら早苗を断ち、真衣を選んだ。

その選択の意味とは果たしてなんだろうか。

年上ではなく、同級生を選んだというのは、自立の象徴だろうか。

父の語りが思い出される。

幼馴染への後悔。

明らかに直樹と真衣の関係に重なる。

結局は、父の歩めなかった人生を歩むことに決めたのだろうか。

父とは別の道を歩むことで、父に託された願いを叶えようとするのか。

もしそうだとしたら、直樹はまた別の世界線での父であろうとしていることになる。

父と直樹の重ね合わせはあらゆる場面に顔を出しており、母も早苗も直樹に父の姿を重ねあせている。

そうして、父が後悔する別の選択肢における父の人生を、直樹は歩もうとしているのか。

直樹は父のことを好いていた。

そういうことだろうか。

それを選んだのだろうか。

そういうことだろうか。