お盆
盆灯籠を飾るのは広島だけらしい。
子どもの頃から見ていたものだから、局地的なものだとは思わなかった。
広島は呉市音戸町、今年も瀬戸内海を望む先祖の霊前に手を合わせにきていた。
母親の実家に着いたら、祖父が入院していると聞かされた。
そういうことは先に伝えておいてほしかったが、祖母はボケが進行しているようで最近は5人いる孫の名前を呼び間違えたりということもあった。
神戸からのおよそ5時間のドライブからたどり着いたは束の間、市の総合病院へと車を再度走らせた。
どうやら自分の生まれたらしいその病院に入ったのは18時になろうかというところで、面会時間ももう少しで終わりという頃合いだった。
西日もそろそろ届かなくなる時間で、院内は陰りが強くなっていた。
祖父は病院の5階にいて、電気の点いていない一室にお世話になっていた。
祖父の娘たる母親がひと声かけて、ベッドを囲むように覆ってあるカーテンを捲くるとそこにはチューブにつながれた祖父の姿があった。
いつもと変わらないけど、その人工物の管理下に置かれたその姿に自分はどういう声をかければいいかわからなかった。
その仄暗い病院がそういう雰囲気にさせたのかもしれないが、思えば患者となった親類を見舞うことが初めてだった。
その時初めて病院という場所の陰鬱さを思い知った。
否が応でも死を意識させられてしまう。
自分の死をよく考えるが、それよりも両親の、それよりも祖父母の死の可能性のほうが高いのだ。
果たしてその場面に直面したときは自分はどうなってしまうのだろうか。
怖いのは自分の死だけではなかった。
母親は祖父の姿に何を思ったのだろう。
先は長くないことを覚悟しているのだろうか。
遠くない将来来る日のことを、既に想像してしまう日が都度あるのだろうか。
突然死じゃなければ、心の準備ができるというが、できるのかもしれないが、それでも本当にそうなってしまったときは思い通りにいかなくなるんだろう。
その日の夜は長かった。
誰にも平等に訪れるその時を、考えずにはいられなかったから。