無駄なく、不足なく

ポン!!

感想を求められればそう言うしかないのが、「カメラを止めるな!」だった。

もちろん面白くてそのポジティブさをどうにかしてネタバレなく伝えたいのだけど、どんなことを言っても余計に感じられてしまうのだ。

それぐらいこの映画には無駄がなくて、繋がっている。

 

この映画に関する前情報で伝えられるとすれば、「ソンビ映画」であるということだけである。

なので、「笑えた」なんて言ってしまうと「ゾンビ映画なのに?」と疑問をもたせてしまうし、「伏線が…」と言えばいろいろ勘ぐってしまう。

だから、この映画は前情報はできるだけ頭に入れずまっさらな頭で鑑賞したほうがいい、少なくとも1回目は。

 

しかし、いやだからこそというか、この映画について語らうことはある種、内輪感が濃くて秘密の共有をしているような気分になる。

けれど、まだその秘密を共有できる相手がいないからもう書いてしまおうと思っている。

 

 

ソンビ映画の撮影、を撮影する映画とは実は知っていた。

そういうメタ的な、入れ子構造になっている映画だということで、頭から始まるその映像は「ゾンビ映画を撮影しているはずが、本物のゾンビが出てきてしまって」というのは認識していた。

その内物語は恐怖感からくるぎこちなさ、間の悪さが際立っていて、居心地の悪さがあった。

噂話をしているとその噂が現実に起きているんじゃないかと不安ににあるという展開は珍しくはない設定ではあるが、ある種お約束的な展開の中で会話の繋がらなさが気持ち悪かった。

しかし、後々その気持ち悪さは起こって当然だとわかる。

中で起きる様々な演出はまるで全て仕組まれたかのような効果的なものとなっているのだが、それらは実はトラブルばかりで台本には書かれてないことばかりだとわかっていくのである。

この内物語を提示したあとの1時間弱はその舞台裏を明かすもので、いわば「答え合わせ」である。

この内物語はとある映像監督による「ワンカットぶっ通し生放送ゾンビドラマ」という番組であることがわかる。

失敗は許されず、なにか起きればアドリブと機転でどうにか場を回して番組として成立させなければならないという状況を提示することで、この先のトラブル材料が次々に準備されてゆく。

「低予算でそこそこ」をモットーとする監督、元女優の妻、映像監督志望だがトラブルメーカーな一人娘、生意気な主役、猫被り女優、デキてる男女、軟水しか飲めないスキンヘッド、弱気な眼鏡、酒が手放せない中年と一人ひとり設定を抱えており、これらの設定をフル活用して生放送はとんでもな展開へとゴリ押しで進んでいく。

撮影直前となり、予期せぬ自体が起きていくが、監督自身が監督役として出演することになり、カメラが録画を始めたその時が、この映画の「二度目の開幕」である。

冒頭の監督の私怨のこもった罵声、助監督と出演陣の会話の回らなさ、突如消えるカメラマン役、倒れるカメラ、作り物ではなく本物の吐瀉物、長すぎるヒロインのアップとそれが全て偶然が生んだ産物であると観客は知らされることになる。

(その偶然を演出しているのがこの映画という、さらにメタ関係にあるわけだが)

トラブル続きのハラハラを全て演者・スタッフの体を張った奮闘があったことを伝えるものだが、それらが全て「そういうことだったのか」という笑いと爽快感に変換される。

最後のピラミッドカメラにはこのチームが初めて一体となったカタルシスがなぜか感じられてしまうし、見事に観後感が良い作品となっている。

そういうわけで観客にはコメディ的な作品として受け止められそうだが、この作品を作った上田監督としては「実際に映画をチームで作り、完成したときの、やりきったときの素晴らしさ」をまた描こうと意図していたかもしれない。

それぐらい、演者・スタッフの活躍ぶりが描かれていたし、これだから映画作りは辞められないとでも言っているかのようだった。

クリエイターに限らず、サラリーマンや日々の仕事でも相通づることで、トラブルがあったときに一緒に闘った人とは不思議と以前より距離が近づいていたりするものだろう。

「一緒に何かを作り上げる、やり遂げる」ことの達成感や爽快感。その幸福。

それこそがこの映画の伝えたいことなのかもしれない。