ゲイジュツ

芸術って何だろうか。
定義を求められるとどうしても答えに窮する。
美術館とか行っても作家毎の芸術の解釈を汲み取れないし、本当になんとなーく「芸術っぽい」とか使ってるわけです。
この時の「芸術っぽい」ってのは「自分みたいな凡人には理解できないものなのだ」という諦めが多分に含まれてる場合が多いのですが。

実際作品みてもわからないんですよ。
どこからどう見ればいいかわからないし、そもそも判断基準がないからどうしようもないし。
同じ「絵」であっても、油絵と漫画では芸術性が高いのは前者であろうし、文化も高等なもののように思える。
と、そこまで考えて、比較することで何か得られそうに感じて。
漫画の対称が絵画=芸術とするならこの2つの差異を比べることで漠然であっても輪郭を描くことはできそうな気がしました。

で、そうして至った1つの芸術の定義は「想像力を必要とするもの、想像力を制限しないもの」という極めて広範で曖昧模糊な答え。
漫画というのは絵もあって、文字もあって、長期性がある(巻数が多い漫画は扱われる期間が長期に及ぶ)。
作者が伝えたいことは、説明を多くかけることができるし、読者は絵や文字から情景は容易に想像できるし人物の心理まで読み取れる。
想像力をそこまで必要としない、読んだ多くの人に似た感じ方を持たせることができるのが漫画。

それに対して、芸術的とされる絵画や造形というのは極めて制約的で、作者が伝えたいことを絵画なら絵でというように少ない情報で伝えなくてはならないのではないか。
もちろん、分かりやすい絵というのもあるけれど、そういうのはあまり芸術的とはみなされていない気がする。
何を対象に描いているかはわかる。けれど、それを通して何を伝えたいかが理解し難い。
そこから必要なのは想像力で作品に残された手がかりから多くの情報を推測し切り取られた状況を広げていく。
この想像力に頼る部分が多く、故に人によって捉えられ方が大きく左右される。
それは翻って、人の想像力を拘束しないということでもある。

そういうものが芸術、かもしれません。
というか自分はそう理解しています。
ただ、この考えは漫画は想像力を必要としないというステレオタイプに基づいているのですが。
自分自身は漫画好きなので、「芸術的な」漫画というのもあるのだという声も頭の中から聞こえても来るのですけれどね。

自信の拠り所

根拠がない。
源がない。
自分を信じることができない。

自信ってなんなのでしょう。
自分自身を信じると書いて自信ですが、何をもって信じればいいのかわかりません。

時間は1つの根拠になってくれそう。
例えば、あれだけ練習したんだから、とか、ずっとやってきたんだから、とか。
継続してきたこと、かけてきた時間が裏付けになってくれるかも。

でも、全てを捧げてきたわけじゃないし。
どこかで妥協して、トレードオフして、何かを優先して、出来うることすべてを為してきたわけじゃない。
根拠のない自信という絶対が欲しい。

外からの評価はもっと大きい。
他者から己の優れる部分を指摘されるとそれだけで自信になるものです。
それだけ効果の大きいものだから、過信に繋がりやすいけど。

でも、かけてきた時間なんか優劣に比例するわけじゃない。
効率ののいい人は少ない時間で優れた結果を残すものだ。
外からの評価は得るのが困難。
だって、面と向かって相手の良いところなんて言わないもんね、滅多に。

じゃあ、どうすればいいのかな。
偏差値にしがみつけばいいかな。
学歴という綱に頼ればいいのかな。
でも、上はいるし。
けれど、下のほうが多いから何とかなるかな。
それでも、でも。
偏差値が全てじゃないことを示す事実が存在することを知っているから。
すべてを打ち消せるわけではない。

1番時間かけてきたものは何にもならない。
特別なこと?
そんなおこがましいこと言える度胸もなければもとよりそんなものありそうにない。
その他大勢でしかないのかな。
それ以下だったらどうすればいいんだろう。

予測が事実になってしまったら逃げ出せないじゃないか。

見えているものが全てだと思うなよ

人間、見ることができるものは限られているはずだ。
全ては見られない。
だから、メディアに頼って間接的に見て聞いて。
だが、クッションが増えるほど情報の信頼性は揺らぐ。
それをまるで自分で見たかのように、嘘など微塵もないかのように信じてしまうのは軽率ではないか?

かといって自分で見たものは全て真実であるわけではない。
現れているものもあれば、隠されているものもある。
あらゆる可能性を排除してはならない。
ひとつの可能性しか見ないのは、視野の狭さ。
想像力の欠如。
偏見。

見ることは切り取ること。
一瞬しか物事は見ることができない。
どの変遷を辿ってきて現在に至るのか。
それを忘れて現在を捉えようなど傲慢甚だしい。

価値と価格

絶対的なものってなんだろうって考え始めて。
それは大体、数値化できないもののような気がした。
だって、他と比べられないものだから。
比べられるのであれば、それは相対的なもの。

価格は相対的なものでしょう。
基本的に、人は価格を比べて購入を決断する。
同じものであれば低価格のものを買うように。
でも、たとえ高価格でも買う人はいるわけで。
他人からしたら高くない?って思えても、その人は買っちゃう。
それはその人の価値観がそうさせるのだろう。
モノがある価格で売られている。
それを己の内の価値観に基づき低価格か高価格か判断する。
たとえ高くともそれだけの価値があると思うなら買う、無ければ買わない。

価値観は揺るがない。
絶対的なもの。
比較不能。
しても意味のないこと。
他人の価値観を比べてどうするの?
無意味。

って思ったのはTSUTAYAをよく使うから。
アルバムが1枚200円位の価格で借りれちゃうなんて。
一曲の価格20円もしないよ?
それ以上の価値、絶対にあるでしょ?

実写化に求めるもの

ちはやふるを読んでいます。
あの少女漫画の。
と見せかけて7、8割はスポ根だけど。
スポーツ万能、成績優秀、イケメンと三拍子揃って一途な男がヒロインに振られるという珍しいパターンをもつ漫画。

まあ、そんな漫画が実写化するらしく。
もう撮影が始まってたり。
で、実写化発表の時、一番騒然としたのがキャスト。
主人公の千早役が広瀬すずですって。
悪かないと思うのだけど。
ただ、千早は身長170cm近くあって美人という外見なもんだから、どうも広瀬すずじゃないような。
広瀬すずはかわいい系な気がするから。

まあ、漫画を実写化する場合に限らず、原作を元にした作品は常に原作の残像に付きまとわれるものですね。
キャストもそうだし、ストーリーも。
アニメとかだと、ストーリーは原作そのままの形を多く見るし実際そうできるからいいんだけど。
映画化だとかなり時間の制約が大きくなって、ストーリーは変えざるを得ない場合が多いような気がします。
その際、ストーリーが違うからと文句を言うのは如何なものでしょう。
もはや別の作品と捉えなきゃいけないのでは。
キャラクターと設定を原作から引き継いでストーリーは別物と考えるべきなのかな。


気持ちは行動に表れるはず、故に

小生、めんどくさがりであります。

几帳面とよく言われますが、めんどくさがりであります。
恐らくどっちも本当。

故に、やりたいことを優先してしまいがち、ですがめんどくささが勝ることがあります。
こういう時「あぁ、それをやりたい気持ちはこの程度だったんだな」って。
自分の気持ちを解釈します。
判断基準は行動です。

つまり、やりたい気持ちが強いということは既に行動に移しているはず。
行動してないということはそこまでやりたくないということ。

ずっとこの方法で自分の気持ちというものを解釈してきましたけど。
どうも最近、それでは納得できない。

何故かはわからない。
気持ちなんてもとよりわかるはずがないけど、他人に教わるわけでもなしに。

「行動してないからこういう気持ちだ」「いやそんなことはない」
せめぎ合っている。

行動を基準にしてきたのに、どうも気持ちの絶対性とでも言うべきものが輪郭を表してきている。

どう折り合いをつけよう。
どうしよう。

仕方なく生

「生きたい」って思ったことある?
かなり積極的な意味で、「死にたくない」ではなくて。

生きてるから「生きたい」って思うわけではないと思う。
戦時下のような生存が脅かされている、死が隣り合わせの状況であれば、「生きたい」と強く生を求めるかもしれない。
でも、現代、とりわけ日本はそんな状況にないし。
自分の状況は恵まれているだろうし。
お金はある。
食べられる。
平和な世の中。
何もしないでも生きていられるから。
「生きたい」って思わない。
今ここに存在して生きているから、生き続けているだけ。

「生きたい」=「死にたくない」はちょっと違う。
存在が継続するという意味においては一緒だけど。
「死にたくない」は消極的。
「死」は嫌なので「生」を選んでいる。
「死にたくない」から生きている。
相対的なものとしての生。
「生きたい」という絶対的な生ではない。

死ぬのは怖い。
今存在していることがなくなるなんて考えられない。
想像の余地を超えている。
不明すぎる。
不明は恐怖。
怖すぎる。
そんなもの選びたくない。
だから、生きている。
仕方なく、という程ではないけど。
自分は今「死にたくない」から生きている。