祖父の死に際して

個人的な話だ。

 

 

祖父が亡くなった。母親の父親、84歳だった。

突然の死ではない。以前から検査入院などしていて、今年に入ってからより体調が悪くなり、誤嚥性肺炎で心臓と肺が止まって、最後の3週間は意識を取り戻すことはなかった。


棺に入った祖父だったものは、祖父にしか見えなかった。寝ている時と変わらない。揺すれば目を覚まして、眼鏡をかけて骨格の丈夫そうな体を揺らしていつもの座椅子の元へと歩いていきそうに見えた。けれど、もう目を覚ますことはないと何故かわかってしまう。何がそう認識させるのかわからなかった。外見だけは変わらないのに、もう生命を終えて「かつて祖父だったもの」に成り果てているという状況が私を混乱させた。


我が家ではお盆と年末年始に両親双方の実家に帰る。神戸と広島。いつも車で何時間もかけて帰っていると言うと大抵驚かれる。毎年(大学受験の時などを除いて)欠かしたことはない。よくよく考えるとかなり仲の良い家庭である。嫁姑問題など、うちにはまるで関係ないことだった。しかし、今年の夏は例外だった。どう考えても体調が良いとは言えない高齢者の元に東京とその郊外に住む人間が会いに行けるわけがなかった。この忌まわしい未知の細菌がなければ、少なくともあと一度は生きているうちに会って直接言葉を交わせたというのに。


結果的に最後に会ったのは今年の年始ということになった。いつもの如くリビングのこたつでテレビを見ながらだらだら過ごすだけの年明け。夜、酒を飲みながら、祖父に初めて戦時のことを聞いた。島には砲台があり、そこに砲弾を運ぶ訓練をしたこと。警報が鳴ると、学校の授業が中止になるからラッキーだと思っていたこと(小さい町とはいえ教育委員会で教育長を務めた人でさえ、幼少期の頃はそう思っていたのだ)。なんとなくタブーだと思って聞けていなかったが、聞くと辛いことを話すというよりは、まるで日常を話すかのような口ぶりな意外な印象を受けた。あるいは戦争が日常として存在していたということかもしれない。もう少し聞いてみたかったし、もっと早く聞いてみるべきだった。


祖父は8人兄弟だったという。何番目かは忘れたが、その兄弟は女子が多かったという。

祖父は3人の子どもに恵まれた。私にとっての伯父2人に母だ。そして、私を含めた孫5人。孫のうち男子は私だけだったから、私が覚えてないだけで、かなり可愛がってもらっていたかもしれない。成人して一緒に酒を飲める日々を口には出さなかったが、内心待ちわびていたのかもしれない。


二日にわたる式の最後に花で祖父をいっぱいにした。顔以外が花で埋まって包まれて、そのまま花が隠して祖父を消してしまうような気がして、ここが最後の別れになるのだと唐突に実感した。もう会えないのだと、これが最後なのだと、棺は閉じられ後は焼かれるのを待つのみとなるのだと思うと、まだ何かやるべきことがあるように思えたけど、当然もう何もできることは残されておらず、私は華やかに包まれた祖父の顔を直視することさえもできず、歯を噛み締めて涙を堪えることしかできなかった。


火葬の時はもう葬儀場の準備するシステマチックな流れに身を委ねるだけだった。燃えて骨となった姿を見たとき、全く祖父だと思えなかった。もう身体はここには実在しないのだと改めて痛感させられるのだと思っていたが、そんなことがなかった。これはなんだろうと思った。祖父ではなく、別のもののように思えた。ずっと不思議な気分だった。

 

 

かつての祖父との記憶。近くの山から竹を採ってきて、割って、節をきれいにして、流しそうめんをしてくれたこと。祖父の部屋には今でも私の大して上手くもない小学生の頃に書いた書き初めが壁に飾ってあること。大きい瓶に小銭を貯めて、年始は孫一同でその中身の合計金額を予想して、当てた順に大きい金額がもらえる風変わりなお年玉システムも運用していたこと。


祖母のことを思う。祖父を愛した人。愛する人を失い、残された家で1人暮らすのか。暮らしていけるのか。式中、ずっと床を見つめていたのは、老化からくる背骨の湾曲によるものか、それとも。

家はどうなるだろう。誰も住むことのなくなった家はどうなるだろう。私にとって「帰る」ことができる場所のうちの一つが失われてしまうのだろうか。


母のことを思う。いつものように飄々としていて、相変わらずあっけらかんとしている。その強さを改めて確認したが、それでもやはり涙を零す様子も見て、母も祖父の子だという当たり前の事実を、つまり娘が父を亡くしたという事実を改めて思い知る。私は母の側にずっといてあげたかった。今は母でいなくていい、娘でいてほしいと、私はずっと思っていた。


先週の友人の結婚式を思い返す。

私は二次会からの参加だったので、披露宴の様子は推測するほかないが、おそらく彼は彼の両親を喜ばせただろう。健在であればその祖父母も孫の晴れ姿に笑い、もしかしたら涙したかもしれない。

私が結婚できるできないとかそういうことを言いたいのではない。これから私がこの世で何をしようとも、もう祖父を喜ばすことができない、というどうしようもない現実が何よりもやるせなくて仕方ないのだ。

 


この日母が置かれた立場に、自分も立つ日が来る。訪れてほしくないが、必ず来る。その時のことを考えたくない。いつか受け入れなければならないが、果たして自分にできるだろうか。

 

死には慣れるのだろうか。今もこうしてしばらく祖父の死に囚われてしまうのは、私が若く、身近な死に接して間もないからだろうか。重ねる年齢がその耐久性を育ててくれるだろうか。積もる経験が死に向かい合うための鎧となってくれるだろうか。

 

死について考えれば考えるほど、わからないということが明確になり、より一層底なしの恐怖に包まれる。死の恐ろしさはそのわからなさにある。誰も死について知ることはできない。死とは人である限り、一方通行の全くの未知であり、純然たる暗黒だ。


私は死後の世界など信じられない。証明できないものを信じることができるほど、死に対して楽観的ではいられない。死後の世界などない。来世などない。死んでも記憶に残れば、だなんて綺麗事だ。生きていること以上に望むべくことなどありはしない。今生きている自分のみが自分であり、ここにいる自分こそ自分だ。死んだら終わりだ、だから生きてこそ価値がある。

 

 

 

収骨を待つ間に昼飯を食べた。やや重い雰囲気の中、私は弁当をかき込んだ。生きていれば腹は減る。悲しくても喉は乾く。私は出された幕の内弁当を残さず全て食べきった。