どんな理由を並べたって、強い言葉を使ったって、納得できるほど漠然とした状況ではないはずだ。強面で、会長と名乗る人物はコミュニケーションが足りない、信頼関係がないと繰り返し強調して強引に押し切った。恐らく大手メディアもその発言の真相を検証することもなく、専門家と言われる人間の論をそのまま使ってメディアとしての意義を果たしたふりをして、間違いと分かればその人間が間違っていたのだと掌を返して目もくれないんだろう。迎合することがメディアか。販売数や視聴率に躍起になり、視聴者に心地よい情報を垂れ流すだけの御用板がメディアか。マーケティングだというのだろう。ユーザーにとって欲する情報を提供するのが役目だと。そう言うのだろう。そんなユーザーは見捨ててしまえばいい。見たいものしか見ようともせず、自分に都合のいい気持ちよくさせてくれるものを提供してくれるようなものを求める、思考停止なユーザーなんて取り残してしまえばいい。反論する勇気が今のメディアには必要だ。何か問題が起きればすぐ沈静化を狙って謝る低姿勢はやめるべきだ。確固たる根拠と論理がないのだろうか。あれば、反論できるはずだ。メディアは育てられるはずだ。施行ができる人間を。広められるはずだ。種々の正しい意見を、正しい形で。個人が変わろうとしているのだ。メディアだってそろそろ重い腰をあげてくれたっていいはずだ。快楽ではない、エンターテイメントに成り下がらないメディアを望む。

 

日本らしいサッカー=パスサッカーなのだろうか。いつからどう決まったのだろうか。あれば教えてほしい。日本にはテクニシャンが多いから?体格が小さいからそこで勝負するしかない?アジリティに優れる?チームワークに優れる?果たして真実か?テクニシャンが多いだろうか。違う、そういう選手にしか目を向けてこなかったからだ。体格の小ささをカバーするため?パスサッカーではなくともプレッシングサッカー、ショートカウンターでもいいはずだ。アジリティに優れる?世界中で共通の体力テストでもやったのか。チームワークに優れる?チーム戦術もろくすっぽ身につけていないというのに。全部が全部言い古されてきた固定観念に過ぎない。みんな信じたいものを信じているのだ。パスサッカーに向いているなんてのは希望だ。願望だ。ろくな根拠にも頼らずそうあってほしいという潜在的な無意識の願望がこの先入観を常に支え、ここまで生きながらえてきた。狂信的なバルサ(オンリー)信仰もここに極まれる。パスサッカーで負けるぐらいなら、勝てるサッカーがいい。グアルディオラに対抗したモウリーニョの如く、個人の力を最大限に生かして究極的に無駄を省いた勝ちを求めるサッカーが見たい。エンターテイメントでなくなれ。日本のサッカーが勝利を求めるスポーツに昇華することを望む。

 

所詮、少数派なのだ。サッカーがいくら国民的なスポーツとなったって、それはあくまで草の根レベルの話で、眼が養われてきたわけではない。スポーツなんかじゃない、結局エンターテイメントとしてしか見てこなかったのだ。無責任な期待だけして、自分勝手に失望して、安全圏から批判を垂れる。それが多数派であり、それを許してきたのが大手メディアであり、今回それに歩みを進めたのがサッカー協会だ。何も変わらない。変わろうとしていない。いや、変わる必要もなく、このままで勝てると思っている過信家が多数派の正体だ。私は望む、この社会の転覆を。私は願う、日本サッカーの覚悟を。