仕方なく生

「生きたい」って思ったことある?
かなり積極的な意味で、「死にたくない」ではなくて。

生きてるから「生きたい」って思うわけではないと思う。
戦時下のような生存が脅かされている、死が隣り合わせの状況であれば、「生きたい」と強く生を求めるかもしれない。
でも、現代、とりわけ日本はそんな状況にないし。
自分の状況は恵まれているだろうし。
お金はある。
食べられる。
平和な世の中。
何もしないでも生きていられるから。
「生きたい」って思わない。
今ここに存在して生きているから、生き続けているだけ。

「生きたい」=「死にたくない」はちょっと違う。
存在が継続するという意味においては一緒だけど。
「死にたくない」は消極的。
「死」は嫌なので「生」を選んでいる。
「死にたくない」から生きている。
相対的なものとしての生。
「生きたい」という絶対的な生ではない。

死ぬのは怖い。
今存在していることがなくなるなんて考えられない。
想像の余地を超えている。
不明すぎる。
不明は恐怖。
怖すぎる。
そんなもの選びたくない。
だから、生きている。
仕方なく、という程ではないけど。
自分は今「死にたくない」から生きている。

俺と自分と時々、私

一人称について学びました。
文学におけるお話ですが。
日本における一人称は多すぎてそれぞれニュアンスが付随してしまっているというお話。

考えてみればすぐ納得できるお話です。
「俺」って言えば男っぽいし、「僕」って言えばそのイメージは緩和され、公的な意味合いが強くなるし、「おいら」とか使うもんなら若干ひょうきんな感が出ますね。
「俺」1つとっても「おれ」「オレ」「俺」と平仮名、カタカナ、漢字に変えるだけでも受けるイメージは左右されちゃいますね。

で、話すときは「俺」でいいんですけどね。
書く時がいささか厄介で。
文字しか伝わらないコミニュケーションの場合、よりその一人称の選択の意味が強く意識させられてしまうのですよ。

加えて、一人称だけじゃなく語尾にも気を使います。
一人称と語尾。
この2つが文字限定コミニュケーションにおいて、その筆者の認識を左右する重要な要素ではないかとちょっと考えています。

というよりは、自分がその考えに捕らわれています。
なんとなく、文字にする場合は中立性というか客観性のもつ一人称を使いたいと思ってるので「自分」を使ってるんですけど。
「私」でもいいんだけど。
ちょっとフォーマルすぎるかな…