見えているものが全てだと思うなよ

人間、見ることができるものは限られているはずだ。
全ては見られない。
だから、メディアに頼って間接的に見て聞いて。
だが、クッションが増えるほど情報の信頼性は揺らぐ。
それをまるで自分で見たかのように、嘘など微塵もないかのように信じてしまうのは軽率ではないか?

かといって自分で見たものは全て真実であるわけではない。
現れているものもあれば、隠されているものもある。
あらゆる可能性を排除してはならない。
ひとつの可能性しか見ないのは、視野の狭さ。
想像力の欠如。
偏見。

見ることは切り取ること。
一瞬しか物事は見ることができない。
どの変遷を辿ってきて現在に至るのか。
それを忘れて現在を捉えようなど傲慢甚だしい。

価値と価格

絶対的なものってなんだろうって考え始めて。
それは大体、数値化できないもののような気がした。
だって、他と比べられないものだから。
比べられるのであれば、それは相対的なもの。

価格は相対的なものでしょう。
基本的に、人は価格を比べて購入を決断する。
同じものであれば低価格のものを買うように。
でも、たとえ高価格でも買う人はいるわけで。
他人からしたら高くない?って思えても、その人は買っちゃう。
それはその人の価値観がそうさせるのだろう。
モノがある価格で売られている。
それを己の内の価値観に基づき低価格か高価格か判断する。
たとえ高くともそれだけの価値があると思うなら買う、無ければ買わない。

価値観は揺るがない。
絶対的なもの。
比較不能。
しても意味のないこと。
他人の価値観を比べてどうするの?
無意味。

って思ったのはTSUTAYAをよく使うから。
アルバムが1枚200円位の価格で借りれちゃうなんて。
一曲の価格20円もしないよ?
それ以上の価値、絶対にあるでしょ?

実写化に求めるもの

ちはやふるを読んでいます。
あの少女漫画の。
と見せかけて7、8割はスポ根だけど。
スポーツ万能、成績優秀、イケメンと三拍子揃って一途な男がヒロインに振られるという珍しいパターンをもつ漫画。

まあ、そんな漫画が実写化するらしく。
もう撮影が始まってたり。
で、実写化発表の時、一番騒然としたのがキャスト。
主人公の千早役が広瀬すずですって。
悪かないと思うのだけど。
ただ、千早は身長170cm近くあって美人という外見なもんだから、どうも広瀬すずじゃないような。
広瀬すずはかわいい系な気がするから。

まあ、漫画を実写化する場合に限らず、原作を元にした作品は常に原作の残像に付きまとわれるものですね。
キャストもそうだし、ストーリーも。
アニメとかだと、ストーリーは原作そのままの形を多く見るし実際そうできるからいいんだけど。
映画化だとかなり時間の制約が大きくなって、ストーリーは変えざるを得ない場合が多いような気がします。
その際、ストーリーが違うからと文句を言うのは如何なものでしょう。
もはや別の作品と捉えなきゃいけないのでは。
キャラクターと設定を原作から引き継いでストーリーは別物と考えるべきなのかな。


気持ちは行動に表れるはず、故に

小生、めんどくさがりであります。

几帳面とよく言われますが、めんどくさがりであります。
恐らくどっちも本当。

故に、やりたいことを優先してしまいがち、ですがめんどくささが勝ることがあります。
こういう時「あぁ、それをやりたい気持ちはこの程度だったんだな」って。
自分の気持ちを解釈します。
判断基準は行動です。

つまり、やりたい気持ちが強いということは既に行動に移しているはず。
行動してないということはそこまでやりたくないということ。

ずっとこの方法で自分の気持ちというものを解釈してきましたけど。
どうも最近、それでは納得できない。

何故かはわからない。
気持ちなんてもとよりわかるはずがないけど、他人に教わるわけでもなしに。

「行動してないからこういう気持ちだ」「いやそんなことはない」
せめぎ合っている。

行動を基準にしてきたのに、どうも気持ちの絶対性とでも言うべきものが輪郭を表してきている。

どう折り合いをつけよう。
どうしよう。

仕方なく生

「生きたい」って思ったことある?
かなり積極的な意味で、「死にたくない」ではなくて。

生きてるから「生きたい」って思うわけではないと思う。
戦時下のような生存が脅かされている、死が隣り合わせの状況であれば、「生きたい」と強く生を求めるかもしれない。
でも、現代、とりわけ日本はそんな状況にないし。
自分の状況は恵まれているだろうし。
お金はある。
食べられる。
平和な世の中。
何もしないでも生きていられるから。
「生きたい」って思わない。
今ここに存在して生きているから、生き続けているだけ。

「生きたい」=「死にたくない」はちょっと違う。
存在が継続するという意味においては一緒だけど。
「死にたくない」は消極的。
「死」は嫌なので「生」を選んでいる。
「死にたくない」から生きている。
相対的なものとしての生。
「生きたい」という絶対的な生ではない。

死ぬのは怖い。
今存在していることがなくなるなんて考えられない。
想像の余地を超えている。
不明すぎる。
不明は恐怖。
怖すぎる。
そんなもの選びたくない。
だから、生きている。
仕方なく、という程ではないけど。
自分は今「死にたくない」から生きている。

俺と自分と時々、私

一人称について学びました。
文学におけるお話ですが。
日本における一人称は多すぎてそれぞれニュアンスが付随してしまっているというお話。

考えてみればすぐ納得できるお話です。
「俺」って言えば男っぽいし、「僕」って言えばそのイメージは緩和され、公的な意味合いが強くなるし、「おいら」とか使うもんなら若干ひょうきんな感が出ますね。
「俺」1つとっても「おれ」「オレ」「俺」と平仮名、カタカナ、漢字に変えるだけでも受けるイメージは左右されちゃいますね。

で、話すときは「俺」でいいんですけどね。
書く時がいささか厄介で。
文字しか伝わらないコミニュケーションの場合、よりその一人称の選択の意味が強く意識させられてしまうのですよ。

加えて、一人称だけじゃなく語尾にも気を使います。
一人称と語尾。
この2つが文字限定コミニュケーションにおいて、その筆者の認識を左右する重要な要素ではないかとちょっと考えています。

というよりは、自分がその考えに捕らわれています。
なんとなく、文字にする場合は中立性というか客観性のもつ一人称を使いたいと思ってるので「自分」を使ってるんですけど。
「私」でもいいんだけど。
ちょっとフォーマルすぎるかな…