生身への逆行

シャラポワがドーピングをしていた。
本人の主張では禁止薬物指定されていたのを知らなかったとのことだけど。

ただ、スポーツ選手がある程度薬を用いるのは茶飯事なのかもしれない。
メルドニウムだって禁止薬物に指定されたのは今年に入ってから。
それまでは普通に使っていても問題なかったわけで。
そりゃ使うか。
もちろん、私は何の力にも頼らない!という人もいるだろうけど。

ただ、このご時世、綺麗サッパリ生身である人間などいるだろうか。
自分だって風邪薬を飲むし、サプリメントを飲む人だっているだろう。
何かしら薬を服用したりしていれば自分で賄えない物質を体内に放り込んでいることになる。
いや、その論理だと食べ物食べて栄養取るのも当てはまっちゃうか…
そうなると薬とはなんぞやって話になるなあ…

その競技の結果に影響を及ぼすものという基準でアスリートに薬物は禁止されているということだろうか。
思えば、人間の身体はどんどん代替可能なものになりつつある。
差し歯とかも含まれるだろうし、義手など言わずもがなだ。
攻殻機動隊のようなSF世界がいよいよ現実味を帯びてきたのだろうか、なんてわくわくするのだけど、そんな世界でアスリートはどこまで存在しうるだろうか。
生身たること、を要求されるアスリートはこの時代に対してはっきりと対抗している、いや取り残されざるを得ない。
義体や電脳が主流となった世界で、生身の身体の価値が薄まる世界で、アスリートという身分は保証されるだろうか。
かえって生身の純潔さにより逆説的にその価値は増すのだろうか。
いつまでアスリートはこの社会の潮流に逆行できるだろうか。

ただ、パラリンピアンはアスリートかって言われると難しいね…

モノの衰退の因子

電子化されたデータって、モノと呼んでいいのかな?

コンテンツではあるけど、モノではない?

手に取れないものはモノじゃないのかな。

だとして、手に取れるものはモノだとして、取れないのはモノじゃないとして。

本とかDVDとかもモノだ。

見る内容こそデータではあるけど、容器には入ってるからモノ。

電子化ってのはデータを容器にいれないことだろうか。

容器に入れずに可視化できるようになったのが電子化。

データを買うようになった時代。

CDとか売れなくなったけど、音楽に対しては需要は減ってない(はず)。

だから、DVDとか本とかの容器が売れなくなってもデータは売れるはずだ。

でも、電子データはその分売れるようになっただろうか。

データ単体で売れているだろうか。

売れてない前提で話を進めるけど。

需要は変わってないのに売れなくなったってことはそのギャップを埋める別の方法ができたってわけで。

それは例えば、YouTubeで見れるようになったりネット配信が始まったりってことのはずだけど。

ただそれだけではそのギャップは埋まっていないような気がする。

データの違法コピーとダウンロードの横行がそれを埋めているような気がする。

だって、金がかからない方法があったら皆そっちを選ぶと思う。

先にやっている人がいる、みんながやっている。

そんな状況で普通に金を払おうとするのなんて馬鹿馬鹿しく思えてしまうはずだ。

対価として金を払っている自分が正しいはず。

なのに、違法でありながらほぼ黙認されているような方法で無料で自分と同じ楽しみを享受している人々が周りにたくさんいたら、どうだろうか。

自分もやってしまおうとなるはずだ。

罪の意識がどこから来るかという話にもなるけど、それはさておき。

モノってのは全く同じモノを複製はできない、というか手間だし。

動画とかも無料で(違法の場合)見れちゃうからDVDとかあんまり買わなくなったんだろうなあ。

いや、本当に売り上げ減ったのか知らんけど。

まあ、値段の高低も関係あるのかな。

DVDとかは値段高いしそれをタダで見ちゃうのはちょっと罪悪感あるのかもね。

その点、音楽はシングルCDだと1000円程度、iTunesだと一曲200円前後だから安い。

それぐらいの値段ならいいかって思っちゃうかもね。

それ以上の価値は絶対あるはずだと思うけどね。

音楽も身近にありすぎて、その重要性に気づけないんだろうね。

失われて初めて気づく、ありがちなヤツ。

 

まあこの考えが多少なりともあてはまるとして、ネットでの違法DLを根絶は一つの解決策になれるのかな。

データを手に入れる手段を失った人はどうするかな。

電子データを買うなりモノを買うなり対価を払うように、正当な方法をとるようになればいいけど。

ただし、最悪なパターンはそのコンテンツ自体を諦めて離れてしまうことかも。

20160302 FANCLUB UNDERWORLD 5 (Zepp DiverCity)

向かったはZepp Divercity、ライブハウス。

ポルノグラフィティのファンクラブイベント。

ライブハウスで!ポルノグラフィティ

アリーナをも満員にするくせに、2000人近くしか入らないライブハウスでライブだなんて!

さぞかし近くで見れるのではないかとソワソワしてたけど。

乗った高速バスが思ったほか時間かかって、東京駅の乗り換えに手惑い、ロッカーなくて無駄足踏んだりで結局会場入りしたのは開演5分前の19:25。

過去三回のライブは全て全席指定だったからね。経験不足ですね、ライブハウスの。

それでも、十分近かったけど。

最前列はもう触れられるレベルだったのだろうなあ。

 

時間になって、諸注意を読み上げているのは昭仁と晴一。

途中、ボケが入ったりもして。

DAIGOのモノマネはもう似せる努力をあきらめていた感はある。

サポートミュージシャンに続いて、観客の呼びかけで2人が登場。

緩い感じで入っていくからこれがライブとは違うなあって思ってたら、晴一が

「今日、本間さん来とるらしいで」

どよめく。

それを合図にいきなり放たれる「Jazz up」

惑ワ不ノ森以来。

アルバムの順番ごとに曲が披露されていく、完全に「ロマンチスト・エゴイスト」再現ライブ。

去年のサマソニManic Street PreachersがHoly Bible再現ライブやってて、「昔のアルバムを順番もそのままでやるってファンはたまらんだろうな」って思ってたけど、なるほどなあ、やばいっすわ。

「Century Lovers」は恒例の掛け声を晴一も担当。

曲にアレンジがかかって、掛け声も「イェイイェイ!」ととても新鮮だった。

次は「ヒトリノ夜」。なんだけど、ファンの要望でインディーズバージョンを演奏。

昔のその音源がYouTubeに上がってらしく、昭仁も把握してた。

なんなら晴一はそれ聞いて音取りしたらしい。「クロに近いね」。

ちなみに歌ってる最中は昭仁譜面台をガン見。

GTOの主題歌にしては歌詞が弱いって理由で現状のものになったと。

で、「ライオン」→「憂色~Love is you~」

「憂色」では晴一プロデュースグッズのテレキャスが登場。

値段は10万近くするけど、曰く「売れてる」んだって。かなり不安だったらしい。

その晴一は「なんでスリッポンなん?」って疑問をぶん投げる。

「ボーカルのグッズって何作ればええんか迷って…」

それでも、当初はパスタソースにしようと思ったって。

ここで、2人は来ていると聞いた本間さんをステージに呼び出す。

本間さん、客席後ろ中央の機械あるとこに普通におった。

そんな近くにおったんかい。

本間さんはプロデューサーで作曲・作詞・編曲とポルノにホント深くかかわってた御仁。

ステージにあがってデビュー当時や「ロマエゴ」の曲にまつわるエピソードが訥々と語られる。

この話が結構弾んで、晴一はギターを一旦外したし、森男は康平の椅子に座ってた。

完全に居酒屋トーク。ぶっちゃけそれだけでもずっと聞きたかったけど。

本間さんは喋るだけじゃ飽き足らず、「Heart Beat」のピアノを弾いてしまう。

これが一番盛り上がったかもしれん。

そのまま「マシンガントーク」で、モンキーダンスかと思いきや、一昨年のLEMF1999で首振り回しすぎて本当に首をおかしくしたらしく、今回はナシ。

代わりにお役御免となった本間さんが両手を上下に振り回しながら袖にはけていきました。

3連続目が「デッサン#1」。

昭仁の歌唱力の高さを感じた。

キー高いのに外さないし、量も凄い出てる。

やっぱ歌うまいなあ。

で、デビュー曲の「アポロ」なんだけど、ここはアレンジ。

昭仁のアコギと晴一のなんだろうね、アコギっぽいんだけどちょっとだけ小さくしたようなギター。

昭仁、ラストサビ前の歌詞を間違える。

終わった後に一人でTake2やってた。

「『このままのスピードで世界が回ったら』の『まーわったら』が歌えんくなったんよね、なんでじゃろ…」

そしてまた三連チャン。

「ラビュー・ラビュー」は相変わらずしゃれてる。

この曲から漂うジャズみたいな雰囲気すごい好き。

いつもは大トリの「ジレンマ」がここ。

「リビドー」のパワーはかなり弾けた。

ラストを飾る「ロマンチスト・エゴイスト」で大団円。

BlurOasisみたいなUKロックも合うんではないかと作られた曲だそうで。

確かに言われてみればOasisっぽいような、「Don't Look Back In My Anger」みたいな。

サポートミュージシャンがはけて恒例の生声でシメかと思いきや、ライブハウスっぽく「記念写真を撮りましょう」というファンの夢が実現。

そして、カメラマンはnan-chang、一眼レフをもって登場。

やはり最前列に行けてればと思わずにはだね…

nan-changのGoProでも撮影のはずが、GoPro壊れる。

「今日は何かある日じゃね」。

 

最高だった。

あの狭い空間でポルノグラフィティが見れるとは。

これなら頑張れるかも。頑張らなくては。

翻訳の難しさ

日本は日本語という世界で稀有な言語を扱うものだから、情報量が乏しいとはどこかで聞いたこと。
まあ確かに、共通語は英語だし、英語が公用語の国にいたらもっと多くの情報にアクセスできるでしょう。
日本語なんて使ってるの日本だけだしね。

別にそこから「ダカラ日本ハー」とかバッシングを加えたいわけではなく。
文化の問題であるからもはや手を付けられるものでもなし。
英語を日本語に翻訳すればいいじゃないなんて簡単に今は言えるけど。
明治初期なんか本当にすごいというか。
英単語を1つ1つ持つ意味を考えて日本語に当てはめて…というのを繰り返すなんて途方に暮れる作業だもの。
それが本来の意味と合っているかどうかはさておき。
(もしや今でも間違ったまま解釈されている英語があるのだろうか)

この今においても翻訳は非常に骨の折れるものであって。
英語ってとても機械的だなあって感じていて。
一人称だったら誰でも「I」で統一感があるから。
それに比べて日本語は多様で特殊すぎて、一人称とか何種類あるのって話。
文体とかこだわっていたらもう切りがない。
だから翻訳しようなんて時には話す主体の特徴まで考えなきゃ到底日本人にはならないわけで。
特にこだわらなくてもいいのかもしれないけどそうした場合、日本人ならこう喋るというリアリティが失われてしまう。
映画とかの字幕だったら話す内容さえわかればいいから大した問題には感じにくいかもしれないけど。

そう考えると日本語は自分を表現するのに豊かな言語かもしれない。

ゲイジュツ

芸術って何だろうか。
定義を求められるとどうしても答えに窮する。
美術館とか行っても作家毎の芸術の解釈を汲み取れないし、本当になんとなーく「芸術っぽい」とか使ってるわけです。
この時の「芸術っぽい」ってのは「自分みたいな凡人には理解できないものなのだ」という諦めが多分に含まれてる場合が多いのですが。

実際作品みてもわからないんですよ。
どこからどう見ればいいかわからないし、そもそも判断基準がないからどうしようもないし。
同じ「絵」であっても、油絵と漫画では芸術性が高いのは前者であろうし、文化も高等なもののように思える。
と、そこまで考えて、比較することで何か得られそうに感じて。
漫画の対称が絵画=芸術とするならこの2つの差異を比べることで漠然であっても輪郭を描くことはできそうな気がしました。

で、そうして至った1つの芸術の定義は「想像力を必要とするもの、想像力を制限しないもの」という極めて広範で曖昧模糊な答え。
漫画というのは絵もあって、文字もあって、長期性がある(巻数が多い漫画は扱われる期間が長期に及ぶ)。
作者が伝えたいことは、説明を多くかけることができるし、読者は絵や文字から情景は容易に想像できるし人物の心理まで読み取れる。
想像力をそこまで必要としない、読んだ多くの人に似た感じ方を持たせることができるのが漫画。

それに対して、芸術的とされる絵画や造形というのは極めて制約的で、作者が伝えたいことを絵画なら絵でというように少ない情報で伝えなくてはならないのではないか。
もちろん、分かりやすい絵というのもあるけれど、そういうのはあまり芸術的とはみなされていない気がする。
何を対象に描いているかはわかる。けれど、それを通して何を伝えたいかが理解し難い。
そこから必要なのは想像力で作品に残された手がかりから多くの情報を推測し切り取られた状況を広げていく。
この想像力に頼る部分が多く、故に人によって捉えられ方が大きく左右される。
それは翻って、人の想像力を拘束しないということでもある。

そういうものが芸術、かもしれません。
というか自分はそう理解しています。
ただ、この考えは漫画は想像力を必要としないというステレオタイプに基づいているのですが。
自分自身は漫画好きなので、「芸術的な」漫画というのもあるのだという声も頭の中から聞こえても来るのですけれどね。

自信の拠り所

根拠がない。
源がない。
自分を信じることができない。

自信ってなんなのでしょう。
自分自身を信じると書いて自信ですが、何をもって信じればいいのかわかりません。

時間は1つの根拠になってくれそう。
例えば、あれだけ練習したんだから、とか、ずっとやってきたんだから、とか。
継続してきたこと、かけてきた時間が裏付けになってくれるかも。

でも、全てを捧げてきたわけじゃないし。
どこかで妥協して、トレードオフして、何かを優先して、出来うることすべてを為してきたわけじゃない。
根拠のない自信という絶対が欲しい。

外からの評価はもっと大きい。
他者から己の優れる部分を指摘されるとそれだけで自信になるものです。
それだけ効果の大きいものだから、過信に繋がりやすいけど。

でも、かけてきた時間なんか優劣に比例するわけじゃない。
効率ののいい人は少ない時間で優れた結果を残すものだ。
外からの評価は得るのが困難。
だって、面と向かって相手の良いところなんて言わないもんね、滅多に。

じゃあ、どうすればいいのかな。
偏差値にしがみつけばいいかな。
学歴という綱に頼ればいいのかな。
でも、上はいるし。
けれど、下のほうが多いから何とかなるかな。
それでも、でも。
偏差値が全てじゃないことを示す事実が存在することを知っているから。
すべてを打ち消せるわけではない。

1番時間かけてきたものは何にもならない。
特別なこと?
そんなおこがましいこと言える度胸もなければもとよりそんなものありそうにない。
その他大勢でしかないのかな。
それ以下だったらどうすればいいんだろう。

予測が事実になってしまったら逃げ出せないじゃないか。

見えているものが全てだと思うなよ

人間、見ることができるものは限られているはずだ。
全ては見られない。
だから、メディアに頼って間接的に見て聞いて。
だが、クッションが増えるほど情報の信頼性は揺らぐ。
それをまるで自分で見たかのように、嘘など微塵もないかのように信じてしまうのは軽率ではないか?

かといって自分で見たものは全て真実であるわけではない。
現れているものもあれば、隠されているものもある。
あらゆる可能性を排除してはならない。
ひとつの可能性しか見ないのは、視野の狭さ。
想像力の欠如。
偏見。

見ることは切り取ること。
一瞬しか物事は見ることができない。
どの変遷を辿ってきて現在に至るのか。
それを忘れて現在を捉えようなど傲慢甚だしい。