祖父の死に際して

個人的な話だ。

 

 

祖父が亡くなった。母親の父親、84歳だった。

突然の死ではない。以前から検査入院などしていて、今年に入ってからより体調が悪くなり、誤嚥性肺炎で心臓と肺が止まって、最後の3週間は意識を取り戻すことはなかった。


棺に入った祖父だったものは、祖父にしか見えなかった。寝ている時と変わらない。揺すれば目を覚まして、眼鏡をかけて骨格の丈夫そうな体を揺らしていつもの座椅子の元へと歩いていきそうに見えた。けれど、もう目を覚ますことはないと何故かわかってしまう。何がそう認識させるのかわからなかった。外見だけは変わらないのに、もう生命を終えて「かつて祖父だったもの」に成り果てているという状況が私を混乱させた。


我が家ではお盆と年末年始に両親双方の実家に帰る。神戸と広島。いつも車で何時間もかけて帰っていると言うと大抵驚かれる。毎年(大学受験の時などを除いて)欠かしたことはない。よくよく考えるとかなり仲の良い家庭である。嫁姑問題など、うちにはまるで関係ないことだった。しかし、今年の夏は例外だった。どう考えても体調が良いとは言えない高齢者の元に東京とその郊外に住む人間が会いに行けるわけがなかった。この忌まわしい未知の細菌がなければ、少なくともあと一度は生きているうちに会って直接言葉を交わせたというのに。


結果的に最後に会ったのは今年の年始ということになった。いつもの如くリビングのこたつでテレビを見ながらだらだら過ごすだけの年明け。夜、酒を飲みながら、祖父に初めて戦時のことを聞いた。島には砲台があり、そこに砲弾を運ぶ訓練をしたこと。警報が鳴ると、学校の授業が中止になるからラッキーだと思っていたこと(小さい町とはいえ教育委員会で教育長を務めた人でさえ、幼少期の頃はそう思っていたのだ)。なんとなくタブーだと思って聞けていなかったが、聞くと辛いことを話すというよりは、まるで日常を話すかのような口ぶりな意外な印象を受けた。あるいは戦争が日常として存在していたということかもしれない。もう少し聞いてみたかったし、もっと早く聞いてみるべきだった。


祖父は8人兄弟だったという。何番目かは忘れたが、その兄弟は女子が多かったという。

祖父は3人の子どもに恵まれた。私にとっての伯父2人に母だ。そして、私を含めた孫5人。孫のうち男子は私だけだったから、私が覚えてないだけで、かなり可愛がってもらっていたかもしれない。成人して一緒に酒を飲める日々を口には出さなかったが、内心待ちわびていたのかもしれない。


二日にわたる式の最後に花で祖父をいっぱいにした。顔以外が花で埋まって包まれて、そのまま花が隠して祖父を消してしまうような気がして、ここが最後の別れになるのだと唐突に実感した。もう会えないのだと、これが最後なのだと、棺は閉じられ後は焼かれるのを待つのみとなるのだと思うと、まだ何かやるべきことがあるように思えたけど、当然もう何もできることは残されておらず、私は華やかに包まれた祖父の顔を直視することさえもできず、歯を噛み締めて涙を堪えることしかできなかった。


火葬の時はもう葬儀場の準備するシステマチックな流れに身を委ねるだけだった。燃えて骨となった姿を見たとき、全く祖父だと思えなかった。もう身体はここには実在しないのだと改めて痛感させられるのだと思っていたが、そんなことがなかった。これはなんだろうと思った。祖父ではなく、別のもののように思えた。ずっと不思議な気分だった。

 

 

かつての祖父との記憶。近くの山から竹を採ってきて、割って、節をきれいにして、流しそうめんをしてくれたこと。祖父の部屋には今でも私の大して上手くもない小学生の頃に書いた書き初めが壁に飾ってあること。大きい瓶に小銭を貯めて、年始は孫一同でその中身の合計金額を予想して、当てた順に大きい金額がもらえる風変わりなお年玉システムも運用していたこと。


祖母のことを思う。祖父を愛した人。愛する人を失い、残された家で1人暮らすのか。暮らしていけるのか。式中、ずっと床を見つめていたのは、老化からくる背骨の湾曲によるものか、それとも。

家はどうなるだろう。誰も住むことのなくなった家はどうなるだろう。私にとって「帰る」ことができる場所のうちの一つが失われてしまうのだろうか。


母のことを思う。いつものように飄々としていて、相変わらずあっけらかんとしている。その強さを改めて確認したが、それでもやはり涙を零す様子も見て、母も祖父の子だという当たり前の事実を、つまり娘が父を亡くしたという事実を改めて思い知る。私は母の側にずっといてあげたかった。今は母でいなくていい、娘でいてほしいと、私はずっと思っていた。


先週の友人の結婚式を思い返す。

私は二次会からの参加だったので、披露宴の様子は推測するほかないが、おそらく彼は彼の両親を喜ばせただろう。健在であればその祖父母も孫の晴れ姿に笑い、もしかしたら涙したかもしれない。

私が結婚できるできないとかそういうことを言いたいのではない。これから私がこの世で何をしようとも、もう祖父を喜ばすことができない、というどうしようもない現実が何よりもやるせなくて仕方ないのだ。

 


この日母が置かれた立場に、自分も立つ日が来る。訪れてほしくないが、必ず来る。その時のことを考えたくない。いつか受け入れなければならないが、果たして自分にできるだろうか。

 

死には慣れるのだろうか。今もこうしてしばらく祖父の死に囚われてしまうのは、私が若く、身近な死に接して間もないからだろうか。重ねる年齢がその耐久性を育ててくれるだろうか。積もる経験が死に向かい合うための鎧となってくれるだろうか。

 

死について考えれば考えるほど、わからないということが明確になり、より一層底なしの恐怖に包まれる。死の恐ろしさはそのわからなさにある。誰も死について知ることはできない。死とは人である限り、一方通行の全くの未知であり、純然たる暗黒だ。


私は死後の世界など信じられない。証明できないものを信じることができるほど、死に対して楽観的ではいられない。死後の世界などない。来世などない。死んでも記憶に残れば、だなんて綺麗事だ。生きていること以上に望むべくことなどありはしない。今生きている自分のみが自分であり、ここにいる自分こそ自分だ。死んだら終わりだ、だから生きてこそ価値がある。

 

 

 

収骨を待つ間に昼飯を食べた。やや重い雰囲気の中、私は弁当をかき込んだ。生きていれば腹は減る。悲しくても喉は乾く。私は出された幕の内弁当を残さず全て食べきった。

天気の子

コラボCMが流れまくり、プロモーション費用が相当なことになっていそうだったが、それも前作「君の名は。」の大ヒットを考えれば当然のこと。

新海誠監督待望の新作「天気の子」は相変わらずの画面の美しさ、よりエンタメ性の強いシーン、そしてラストに至る選択に対する議論の余地によって、「君の名は。」とは続編のようでありつつ、観劇後の感じ方はおよそ二つに分かれそうだが、期待通りの面白さだったのではなかろうか。

言ってしまえば前作からの評価や成功といった結果から制作上の影響をしっかり受けて作られたのが本作であり、「君の名は。」からの監督を取り巻く環境の変化からしっかり文脈が繋がっており、それを読み取っていくとなぜこのような物語になったのかは非常にわかりやすいのではないだろうか。

 

画面の美しさ

日経エンタメだったか、川村元気曰く新海監督は「空と雲の描写の美しさ」が武器の一つであるとされていて、それが存分に発揮されている。モチーフが天気であり、劇中は基本曇天のため、それが晴れた時の空の描写にはメリハリが効いてより美しく見えるように感じる。陽菜が「晴れ女」であるため、曇天が晴れて光が街を覆う描写は一つの見せ場であるわけだから、それ以外の時間は曇天にして出し惜しみする演出が効果的。とはいえ、雨の描写も流麗だが。

 

強調されたエンタメ性

君の名は。」よりもさらにエンターテイメントとしての演出が強く見受けられた。K&Aでの場面はコミカルだし、何よりもアクションシーンが多い。警察からの逃亡劇もそうだが、序盤から見られる暴力、偶然手にしてしまう拳銃とそれの使用、カーチェイス。どれも今までの作品には見られなかったものではないだろうか。無論、今まで見られなかった演出だから、戸惑いもした。拳銃を手にして実際に発砲するとは、(新海誠作品にしては)過激ではないかと。それがCUTでの「ヤケクソ」「開き直った」発言と関連しているかは微妙なとこだが。あとは「君の名は。」主要キャストの再登場。明らかなサービスシーンである(お彼岸の説明は必要だったかもしれないが。彼岸=雲上=陽菜の死を表現できるから。そう考えると死ぬ運命にある少女を少年が助けるという構図は「君の名は。」と一致している。)。

 

vs世界

前述の警察からの逃亡然り、主人公が今回は明らかに対立する構図となっている。別に警察に追われる理由は家出によるものだが、脱走したり、発砲したりと公権力への対立を明確に描いている。果ては日本に雨が止まなくなるとしても陽菜と一緒にいることを選択した。世界を相手取って一人の女の子を選択したことは若さの象徴とも取れるし、雨降りになった世界になった後、その選択に後ろめたさも感じる帆高に対する年長者のフォローはその対立を緩和させることを狙っているようだ。インタビューによれば、調和のとれた結末とは離れたものを、とのことだし、たくさんの人に見られるだろうから多くの異なる意見が出る作品にしたいとも述べていた。それこそ前作のヒットがあってこその影響だし、世間の目を意識した作品作りがなされている。とはいえ、前作への悪口とかその辺のネガティブな視線に対する不満とかが十分に原動力になっているみたいだし(CUTのインタビューより)、より監督自身の望む結末になっているとのことである(前作はみんなが望むハッピーエンドであったことと比較するとわかりやすい)。そんだけ色々言われるなら好きなもんにしてやる!という意気込み(本人曰くヤケクソ)を感じられるし、前作からの画面外での文脈が非常に感じられる。

 

田端駅

陽菜の家がまさかの田端駅南口の近く。なぜここがという驚き。田端駅は北口と南口の出口があるが、北口の方はアトレヴィ田端があり、多少の飲食店もあるのだが、南口はと言うと住人しか使うことのない出口となっている。改札は無人で、自動改札2つしかなく、線路をまたいで西側にしか出られない設計になっている。東側に出るには北口から迂回しなければならない。そんな圧倒的に地味な南口が聖地になるとは思っても見なかった。なぜ田端駅南口なのか、という必然性は考えうるものはその地形にあるだろうか。南口は(北口もだが)線路を見下ろす形になっていて高台になっている。終盤東京は水没するわけだが、ラストのシーンでは水没した東京と二人が同時に見える画面構成を意識したはずで、線路よりも高台かつ線路に沿った道がある田端駅南口はその画面作りに適していたということだろうか。考えられるとしたらそれぐらいしかない。あと都心部にしては家賃も山手線沿線駅の中では安いし、中学生と小学生が暮らす街としてそこまで違和感もないかもしれない。とはいえ南口も最近は綺麗なマンションが建ち始めたりしているのでやや寂れた脚色はされているなと思ったが。

 

うろ覚えのあらすじ。

病室から始まる。雲から木漏れ日が覗き、その光が降り注ぐ廃ビルの屋上を目指す少女陽菜。願いながら鳥居をくぐると雲の遥か上にいた。

船に乗っている少年帆高。雨にはしゃいで、船体が傾いて落ちそうになるところを須賀に助けられる。行き先は東京。

東京に降り立地、仕事を探すも見つからない。偶然拳銃を手に入れお守りがわりに持つことになる。マックで寝てると店員の陽菜がハンバーガーを差し入れる。結局、須賀を頼る。一緒に働く夏美を愛人だと思い込む。言うほど本田翼の演技は悪くないと言うか、本田翼はこういう奔放な役は似合っていると思うから、はまっているのではないか。ムーのライター業を住み込みでやり始める。

街中で偶然陽菜を見つける。チンピラに連れ込まれそうになっているところを助け出すが、捕まる。咄嗟に出した拳銃を発砲。抜け出した二人は廃ビルで邂逅を果たす。まだ東京の晴れを見たことがない帆高のために陽菜は晴れを見せる。その後、陽菜の家へ。その能力に感動した帆高は「晴れ女ビジネス」を始める。

「晴れ女ビジネス」は意外と好調で、予約が殺到し、陽菜は晴れになって喜ぶ人たちを見てやりがいを感じるようになる。その流れで瀧も登場する。瀧は随分と落ち着いた振る舞いになっていた。

最後の依頼は須賀の依頼だった。娘のために晴れにしてほしいという依頼に居合わせていた夏美は晴れ女が異常気象を直すための人柱だという噂を陽菜に話す。

誕生日が近い陽菜のためにプレゼントを選ぶ帆高。指輪を買い、彼の質問に応対していたのは三葉だった。

その頃、警察は拳銃所持の疑いに加え、行方不明届の出されている帆高の捜索に乗り出す。須賀の職場を退職した帆高は保護者不在で保護対象となる陽菜と弟凪ともに警察から逃げる。8月だというのに雪が降る異常気象の中、警察に捕まる帆高。それを助けようと陽菜が願うと、雷が付近のトラックに直撃、爆発する。

からがら逃げ果たし泊まるホテルも見つけられた帆高はベッドの上で指輪をプレゼントする。陽菜は「晴れてほしいか」と尋ねる。そりゃあという感じで「うん」と生返事で返す帆高。陽菜は人柱の件を打ち明け、自身の身体が一部透けている様子を帆高に見せる。ずっと一緒ですぐ治ると抱きしめる帆高。

夢を見る。陽菜が雲の上へ消えていく夢。

起きると陽菜の姿がない。凪も同じ夢を見たという。瞬間、警察が押し寄せる。確保され外に出ると数ヶ月ぶりの晴天で、空が光ったかと思うと何かが落ちてくる。拾い上げるとそれは渡したはずの指輪だった。

取調室に入るところで脱走した帆高。それを夏美が拾いカーチェイスを繰り広げる。バイクが走れなくなってもひたすら工事中の山手線線路を走り、代々木の廃ビルを目指す。

廃ビルには須賀が待ち構えていた。大人の目線から帆高を説得しようとするが、抵抗する帆高。捨てたはずの拳銃を帆高は手にし、同時に警察も介入する。結局、大人になりきれない須賀は帆高のアシストをする。同じく保護から脱出した凪の助けを得て、帆高は願いながら必死で鳥居をくぐる(ちなみに凪の取り巻きの子が「綾音」と「かな」だったが、これは声優を務めた「佐倉綾音」と「花澤香菜」から来てるんだろう。花澤香菜は「言の葉の庭」から連続しての新海作品への出演。「あやね」の苗字は「花澤」で、声優二人の苗字を入れ替えた形になっていた。)。

気づくと雲上。真っ逆さまに落ちていき、雲の上で寝ている陽菜は目を覚まし、手を取り一緒に東京上空を自由落下していき、二人は結ばれる。

須賀が空を見上げると曇天が押し寄せ、土砂降りの雨が降り注ぎ始める。鳥居の下には二人が揃って横たわっていた。

3年が経っても雨は止まず、東京は低地がほとんど水没していた。島に戻され保護観察を受けながら高校を卒業した帆高は再び上京し、一人暮らしを始める。須賀の会社は綺麗なオフィスを構えていた。ずっと連絡も取っていなかった彼女に会うため、再び田端駅南口に降り立つ帆高。不動坂の上り坂を見上げると願いの手を合わせる陽菜の姿があった。かつてのように晴れになったりはしない。二人は再び邂逅を果たし、「僕たちはもう大丈夫」と伝え合うのであった。

 

緩急乱高下「ザ・ファブル」

岡田准一ひらパー兄さんの夢の共演、「ザ・ファブル」。

スーパーなアクションで極まったシリアスに真顔シュールギャグでジェットコースターの如くギャップを乱高下させられるアクションコメディとしては最高の映画だったのではないだろうか。

 

最近の岡田准一と言えば、重厚感ある役柄も多い上、アクションは超一流。その演じるキャラがほとんど笑わない無表情な(ジャッカル富岡を除く)最強の殺し屋・佐藤アキラとなれば自然とシリアスで硬派な映像になりそうであるが、その予想をうまく逆手にとって下らないシュールなコメディで突き落としては引っ張り上げてを繰り返すという構造。この構造自体は他の映像作品にもよく見られるものだが、これを岡田准一にやらせてしまうという発想が最高だった。

偶然にもこの日読んだこの記事文中にもあるのだが、

sai-zen-sen.jp

岡村
「いまいちピンとこない人もいるかもしれませんが、ここに出てくる監督や選手のエピソード、実際にあったことばかりなんです。選手の後年のインタビューなどを調べた上で書かれた、リアリティのある話なんですよ。タイムリープできるというフィクションと、リアルな事実が組み合わさっている、かなり稀有な作品といえます。『シン・ゴジラ』もそういう作品で、ゴジラ自体はフィクションだけど自衛隊のシミュレーションはリアルに描かれているじゃないですか。」


「嘘を二個つかない、かつ嘘じゃない部分はリアルに描く。だからこそ嘘が面白くなるわけで、嘘が複数あると途端にとっちらかって読者の興味が薄れちゃうんです。面白い物語の基本ですね。」

岡村
「そう、「大ウソ×超リアル」のバランスが絶妙なんです。そもそも阪神という球団の恐ろしいところは……」

 

この「嘘じゃない部分はリアルに描く」を極めているのだ「ファブル」は。

アクションシーンはリアルというか超一流。しかも、岡田准一はスタントなしでのアクション。脳裏にミッションインポッシブルのトム・クルーズが浮かぶ。身長も近いし、もはや岡田准一は「和製トム・クルーズ」である。それにドがつくほどの滑りギャグを混ぜ合わせたらもう乱高下もいいところである。アクションで度肝抜かされ、ギャグで息を吐かせてをテンポよく繰り返される。ゴミ処理場に乗り込む時、壁を登っていく岡田准一はヤバかった。一人で急にSASUKEを始めるもんだから、映画館内で「えっ…」と誰かの声が漏れた。ついにアクションのターンだなと思い身構えると「なんでおれもやねーん」でまた真っ逆さまに落とされる。

そんな高低差が非常にある「ザ・ファブル」は非常に満足度が高くなるのも頷ける。

 

岡田准一はアクションをして、笑いを取り、全裸になって、と八面六臂の活躍。

木村文乃はアホ楽しそうだが、最後に「本当に強い」ことを証明して見せたのは原作へのリスペクトも感じた(あれがないとただの酒の強いアホ女になってしまう)。

山本美月は本当に幸薄くて関西弁で最高。柳楽優弥に同情するわけじゃないが、拉致されてからの山本美月は見ものである。

安田顕は最後に弟分を殺すことで、社長たる所以を見せつけていた。あのガレージの件(コント)は間が秀逸。

福士蒼汰は一護なんかよりもセクシーでイケメンであったのでは?演技も気にならない。

柳楽優弥は相変わらず変態。

向井理は目を見開いた時の悪役っぷりは中々どうして堂に入っておられる。実はこの映画イケメンが結構多いということに気づかされる。

そして、シュールコメディには必ず居合わせる佐藤二朗。もはやポジションを確立させた感がある。大体福田雄一のせい。

 

スタッフロールに目を向けると、途中

「ジャッカル富岡 振付考案」

「ジャッカル富岡 ネタ考案」

と一人ずつスタッフが配されていることに気づき笑ってしまう。

そして、音楽にはCRCK/LCKSの小西遼のクレジットも。劇伴も手がけるとは手広く活動している。

装飾の欄に「グラフィック社」とあったが、あのグラフィック社?出版社の?

 

ギャップが大事とは言うが、そのギャップを出来るだけ大きく大きくとることで、アクションとコメディをより際立たせたことが面白さの最大の要因。

原作を知っていても知らなくても満足することは請け合いではないだろうか。

DTTM Final

初めてのShiggy Jr.。初めてのEX THEATER。

Sun is coming up とDo you remember? が好きすぎて勢いでチケットを買ってしまったが、ライブにフットワーク軽くしていくのは今年は推進していきたい。

推進しすぎた結果の金欠は後悔はないが、しんどいことにはしんどい。

 

1,700人ほどのキャパの会場が満員にならないのはやや寂しいが詰め込み状態になるのも窮屈なので見る分には丁度いいとも言えるかもしれない。

TUNE IN!!→シャンパンになりきれない私を→サマータイムラブと飛ばしていく。

サマータイムラブは代表曲と勝手に思っていたが、盛り上がりを見るにその認識は正しかったよう。

 

森さん「ファイナルに向けてヨガやめた。すね毛濃いとつらい」

諸石「ツアーで食べすぎて4kg近く太った。ジークジオン!」

原田「昨日しゃぶしゃぶ食べた。ゴマだれにニンニク入れて食べるのが最高」

池田「そんなポン酢好きそうな顔して?」

 

magic of the winter→サングリア→you are my girlで冬の曲。

Still Love You→looking for youでバラード。

バラードゾーンからMCを挟まずにダンスゾーンへ。

DANCE DANCE DANCE→we are the future→どうかしちゃってんだ

このゾーンは気合が入っていたように思えたし、実際力を入れていたらしい。

BPMを揃えてスネアやキックも同じようにしたらしい。詳しくはわからない。

ただ、we are the futureへの繋ぎは鳥肌がたった。自然な繋ぎでのメドレーは本当に痺れる。

この曲で原田と森さんが横にステップを踏みながら演奏していたのを見てShiggy Jr.の象徴のように思えた。ポップで踊れて楽しい。そんな音楽。

次曲ではMC SUMMERが登場し、ラップとコールアンドレスポンス。

ゾゾタウンでマネージャーが買ったヒョウ柄ジャケット(未着用)とサングラスのスタイル。

そして、ヨガは徹底的にネタにしていくスタイル。ヨガファイア。

池田がまあ本当に面白がっていた。

 

恋したらベイベー→LISTEN TO THE MUSIC

MC挟まっていたっけかよく覚えていない。

 

原田「つらいこともあるけどみんな頑張っていこうぜ」という旨からピュアなソルジャー。

第1幕完。

 

アンコールの手拍子。変わる拍子とリズム。誰が先導しているのだろうか。

 

4人でサンキューからの新曲「D.A.Y.S.」。オープニング感溢れるらしい曲。

全然気づかなかったが、キーボードは藤井洋だったんだ。

横浜ロマンスポルノ以来である。よく見たら髪型があの時と変わっていない。

池田「4時間の脳内会議をした」ラストMCを挟んで、誘惑のパーティーで第2幕完。

 

アフターイベント。もう少し楽なシステムは組めそうな気はする。

テーマトーク

「地球最後の日に食べたいブツ(森さん)」

池田「イクラご飯」

原田「何だろうね」

諸石「ラーメンは血液。」

池田「4kgの脂肪がついたってことは赤ちゃんいるようなもんだね。ご懐妊だね」

諸石「麺太郎って名前にしよう」

森さん「隕石が目前まで来てて…口の中にあるもの…ブリだわ!」

諸石「テーマは地球最後の日に食べたいブリだったか」

 

「荷物」

諸石「ニンテンドースイッチでしょ」

森さん「トートバッグにiPadとパンツ」

原田「着替えとかしかない」

池田「キャリーとトートと斜めがけのサコッシュみたいなの」

 

質問コーナー

「最近聞いているJ-POPは?」

諸石「Yogee New Wavesは毎日帰り道で聞いてる。対バンやりたい。」

池田「エレカシのミヤジさんがインスタはじめたんですよ。たまらん。」

 

「やりたいハコ」

「ボイトレで気をつけてること」

「願い事ノートに書いていること」

なんか池田さん宛ての質問が多かったね。池田さん目当てのファンはかなりいそうだ。

 

全然覚えてないものだ、もっと話してたことがあったはずだが。

あとハイタッチ会的なものを初めて体験したが、アイドルにハマる人の気持ちがちょっとわかった。

諸石さんに「初めて来ました」と行ったら「マジで!?」って反応してくれただけでうれしくなっちゃうからね、もっと話してみたいし、認知されたらそりゃ嬉しいね。

 

また行こ。

生きてるだけで、愛

前情報をほとんど入れなかった。

菅田将暉が編集者の役で鬱で過眠症の彼女と同棲していること。それだけ。

ノローグで始まる。

寧子はこれで鬱なのか。ひどく不機嫌でよく津奈木は好きになったものだ。正直、めんどくさい女としか思えない。

津奈木は無気力に見える。やりたくもないゴシップ誌の編集。仕事は積み重なる。ひどく感情を出さない。

寧子にとってのお姉ちゃんはどんな存在なんだろうか。

お互い悪態を突きながらも弱ったときに頼りたい存在であり、嬉しい出来事があれば知らせたい存在。

この日常に酷く不愉快を感じた限界で、転機が訪れる。

物語を動かすのは大抵、色恋沙汰と相場は決まっていて津奈木の元カノが接触してくる。

しかし、こいつも大概で、寧子に心配される始末。

精神病を患う(実際、鬱なのか本人がそうだと思いこんでいるだけなのかはわからないが)人間よりも津奈木に未練たらたらな人間のほうがイカれている。

そうすると、急に寧子への嫌悪感は引っ込んで、同情の念が湧いてくる。安藤のほうがよっぽどおかしい。

安藤もある意味精神病患者である。

カフェバーでは働くことになった寧子。

オーナーも含めて器が広いというよりは興味が程よくない。

過剰な心配をすることなく、当然のものとして捉えているからか。

寧子と反対にすり減っていく津奈木。

嫌な予感をさせる。

ウォシュレットが怖い寧子。

それは一般的な考えではなくて、理解されないことで我に返る寧子。

多分、寧子は全てを理解されたい。

寧子は全てに本気すぎる。楽をしない。

手抜きをしないで理解されなくても気にしない、なんてことができない。

些細なことでも理解されたい。

寧子は全てを曝け出して相手にもさらけ出すことを求める。

それが否定されるということは、何も纏わない自分の根幹を否定されるということだから耐えられない。

全裸になった寧子。服を着たままの津奈木。

本音しかなかった者と、やり過ごしてきた者。

最後のシーンはそういう表現だったんだと思う。

恋人という依存関係。

二人で一つじゃないが、自分と相手の境界が曖昧になって切り離せなくなっていく関係。

異類婚姻譚で描いたのは夫婦の関係。

今回のはやがて別れるであろう恋人の関係。

依存しなくていい(できない)関係は多分恋人である必要がない。

無駄なく、不足なく

ポン!!

感想を求められればそう言うしかないのが、「カメラを止めるな!」だった。

もちろん面白くてそのポジティブさをどうにかしてネタバレなく伝えたいのだけど、どんなことを言っても余計に感じられてしまうのだ。

それぐらいこの映画には無駄がなくて、繋がっている。

 

この映画に関する前情報で伝えられるとすれば、「ソンビ映画」であるということだけである。

なので、「笑えた」なんて言ってしまうと「ゾンビ映画なのに?」と疑問をもたせてしまうし、「伏線が…」と言えばいろいろ勘ぐってしまう。

だから、この映画は前情報はできるだけ頭に入れずまっさらな頭で鑑賞したほうがいい、少なくとも1回目は。

 

しかし、いやだからこそというか、この映画について語らうことはある種、内輪感が濃くて秘密の共有をしているような気分になる。

けれど、まだその秘密を共有できる相手がいないからもう書いてしまおうと思っている。

 

 

ソンビ映画の撮影、を撮影する映画とは実は知っていた。

そういうメタ的な、入れ子構造になっている映画だということで、頭から始まるその映像は「ゾンビ映画を撮影しているはずが、本物のゾンビが出てきてしまって」というのは認識していた。

その内物語は恐怖感からくるぎこちなさ、間の悪さが際立っていて、居心地の悪さがあった。

噂話をしているとその噂が現実に起きているんじゃないかと不安ににあるという展開は珍しくはない設定ではあるが、ある種お約束的な展開の中で会話の繋がらなさが気持ち悪かった。

しかし、後々その気持ち悪さは起こって当然だとわかる。

中で起きる様々な演出はまるで全て仕組まれたかのような効果的なものとなっているのだが、それらは実はトラブルばかりで台本には書かれてないことばかりだとわかっていくのである。

この内物語を提示したあとの1時間弱はその舞台裏を明かすもので、いわば「答え合わせ」である。

この内物語はとある映像監督による「ワンカットぶっ通し生放送ゾンビドラマ」という番組であることがわかる。

失敗は許されず、なにか起きればアドリブと機転でどうにか場を回して番組として成立させなければならないという状況を提示することで、この先のトラブル材料が次々に準備されてゆく。

「低予算でそこそこ」をモットーとする監督、元女優の妻、映像監督志望だがトラブルメーカーな一人娘、生意気な主役、猫被り女優、デキてる男女、軟水しか飲めないスキンヘッド、弱気な眼鏡、酒が手放せない中年と一人ひとり設定を抱えており、これらの設定をフル活用して生放送はとんでもな展開へとゴリ押しで進んでいく。

撮影直前となり、予期せぬ自体が起きていくが、監督自身が監督役として出演することになり、カメラが録画を始めたその時が、この映画の「二度目の開幕」である。

冒頭の監督の私怨のこもった罵声、助監督と出演陣の会話の回らなさ、突如消えるカメラマン役、倒れるカメラ、作り物ではなく本物の吐瀉物、長すぎるヒロインのアップとそれが全て偶然が生んだ産物であると観客は知らされることになる。

(その偶然を演出しているのがこの映画という、さらにメタ関係にあるわけだが)

トラブル続きのハラハラを全て演者・スタッフの体を張った奮闘があったことを伝えるものだが、それらが全て「そういうことだったのか」という笑いと爽快感に変換される。

最後のピラミッドカメラにはこのチームが初めて一体となったカタルシスがなぜか感じられてしまうし、見事に観後感が良い作品となっている。

そういうわけで観客にはコメディ的な作品として受け止められそうだが、この作品を作った上田監督としては「実際に映画をチームで作り、完成したときの、やりきったときの素晴らしさ」をまた描こうと意図していたかもしれない。

それぐらい、演者・スタッフの活躍ぶりが描かれていたし、これだから映画作りは辞められないとでも言っているかのようだった。

クリエイターに限らず、サラリーマンや日々の仕事でも相通づることで、トラブルがあったときに一緒に闘った人とは不思議と以前より距離が近づいていたりするものだろう。

「一緒に何かを作り上げる、やり遂げる」ことの達成感や爽快感。その幸福。

それこそがこの映画の伝えたいことなのかもしれない。

 

お盆

盆灯籠を飾るのは広島だけらしい。

子どもの頃から見ていたものだから、局地的なものだとは思わなかった。

広島は呉市音戸町、今年も瀬戸内海を望む先祖の霊前に手を合わせにきていた。

 

母親の実家に着いたら、祖父が入院していると聞かされた。

そういうことは先に伝えておいてほしかったが、祖母はボケが進行しているようで最近は5人いる孫の名前を呼び間違えたりということもあった。

神戸からのおよそ5時間のドライブからたどり着いたは束の間、市の総合病院へと車を再度走らせた。

どうやら自分の生まれたらしいその病院に入ったのは18時になろうかというところで、面会時間ももう少しで終わりという頃合いだった。

西日もそろそろ届かなくなる時間で、院内は陰りが強くなっていた。

祖父は病院の5階にいて、電気の点いていない一室にお世話になっていた。

祖父の娘たる母親がひと声かけて、ベッドを囲むように覆ってあるカーテンを捲くるとそこにはチューブにつながれた祖父の姿があった。

いつもと変わらないけど、その人工物の管理下に置かれたその姿に自分はどういう声をかければいいかわからなかった。

その仄暗い病院がそういう雰囲気にさせたのかもしれないが、思えば患者となった親類を見舞うことが初めてだった。

 

その時初めて病院という場所の陰鬱さを思い知った。

否が応でも死を意識させられてしまう。

自分の死をよく考えるが、それよりも両親の、それよりも祖父母の死の可能性のほうが高いのだ。

果たしてその場面に直面したときは自分はどうなってしまうのだろうか。

怖いのは自分の死だけではなかった。

母親は祖父の姿に何を思ったのだろう。

先は長くないことを覚悟しているのだろうか。

遠くない将来来る日のことを、既に想像してしまう日が都度あるのだろうか。

突然死じゃなければ、心の準備ができるというが、できるのかもしれないが、それでも本当にそうなってしまったときは思い通りにいかなくなるんだろう。

 

その日の夜は長かった。

誰にも平等に訪れるその時を、考えずにはいられなかったから。