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どんな理由を並べたって、強い言葉を使ったって、納得できるほど漠然とした状況ではないはずだ。強面で、会長と名乗る人物はコミュニケーションが足りない、信頼関係がないと繰り返し強調して強引に押し切った。恐らく大手メディアもその発言の真相を検証することもなく、専門家と言われる人間の論をそのまま使ってメディアとしての意義を果たしたふりをして、間違いと分かればその人間が間違っていたのだと掌を返して目もくれないんだろう。迎合することがメディアか。販売数や視聴率に躍起になり、視聴者に心地よい情報を垂れ流すだけの御用板がメディアか。マーケティングだというのだろう。ユーザーにとって欲する情報を提供するのが役目だと。そう言うのだろう。そんなユーザーは見捨ててしまえばいい。見たいものしか見ようともせず、自分に都合のいい気持ちよくさせてくれるものを提供してくれるようなものを求める、思考停止なユーザーなんて取り残してしまえばいい。反論する勇気が今のメディアには必要だ。何か問題が起きればすぐ沈静化を狙って謝る低姿勢はやめるべきだ。確固たる根拠と論理がないのだろうか。あれば、反論できるはずだ。メディアは育てられるはずだ。施行ができる人間を。広められるはずだ。種々の正しい意見を、正しい形で。個人が変わろうとしているのだ。メディアだってそろそろ重い腰をあげてくれたっていいはずだ。快楽ではない、エンターテイメントに成り下がらないメディアを望む。
日本らしいサッカー=パスサッカーなのだろうか。いつからどう決まったのだろうか。あれば教えてほしい。日本にはテクニシャンが多いから?体格が小さいからそこで勝負するしかない?アジリティに優れる?チームワークに優れる?果たして真実か?テクニシャンが多いだろうか。違う、そういう選手にしか目を向けてこなかったからだ。体格の小ささをカバーするため?パスサッカーではなくともプレッシングサッカー、ショートカウンターでもいいはずだ。アジリティに優れる?世界中で共通の体力テストでもやったのか。チームワークに優れる?チーム戦術もろくすっぽ身につけていないというのに。全部が全部言い古されてきた固定観念に過ぎない。みんな信じたいものを信じているのだ。パスサッカーに向いているなんてのは希望だ。願望だ。ろくな根拠にも頼らずそうあってほしいという潜在的な無意識の願望がこの先入観を常に支え、ここまで生きながらえてきた。狂信的なバルサ(オンリー)信仰もここに極まれる。パスサッカーで負けるぐらいなら、勝てるサッカーがいい。グアルディオラに対抗したモウリーニョの如く、個人の力を最大限に生かして究極的に無駄を省いた勝ちを求めるサッカーが見たい。エンターテイメントでなくなれ。日本のサッカーが勝利を求めるスポーツに昇華することを望む。
所詮、少数派なのだ。サッカーがいくら国民的なスポーツとなったって、それはあくまで草の根レベルの話で、眼が養われてきたわけではない。スポーツなんかじゃない、結局エンターテイメントとしてしか見てこなかったのだ。無責任な期待だけして、自分勝手に失望して、安全圏から批判を垂れる。それが多数派であり、それを許してきたのが大手メディアであり、今回それに歩みを進めたのがサッカー協会だ。何も変わらない。変わろうとしていない。いや、変わる必要もなく、このままで勝てると思っている過信家が多数派の正体だ。私は望む、この社会の転覆を。私は願う、日本サッカーの覚悟を。
諦める
卒論が終わった。
提出締め切り1日前に提出して、やけにすっきりとした気持ちになった。
苦戦したのは「やりたくなかった」のが大部分だけど、それ以前に「どうしてよいかわからない」というのもあった。
聞き取り調査はした。
けど、そのデータをどう読み取ればいいのか。
いわゆる分析視点に欠けているというやつで、そんな状態じゃあ進むわけもない。
後がなくなり、先生に視点のヒントを貰ってからは、一気に書き上がった。
結局、分析視点、「どう読むか」という枠組みが大事だった。
それは学術論文に限らないことで、小説にも当てはまると思う。
どのような物語か、テーマは何か、それを明確にするだけでかなり読みやすくなる。
何を見るかを決めなければ、焦点が定まることはないのだ。
三田誠広の「春のソナタ」を読んだが、焦点が定まっていたので読み解きやすかった(気がする)。
「僕って何」で芥川賞を取った作者だが、この物語も結局、「僕って何」なのだ。
「春のソナタ」も「自分とは何か」というアイデンティティの確立を目指していく話なのだと、そう考えて(決め打ちして)読むとほとんどの文章の意味が腑に落ちていった。
自分の将来をイメージするときって、必ずや親の存在を意識せずにはいられないのではないかと思う。
サラリーマンの親だったら、まずサラリーマンになる自分を想像して、そこから反抗したり、受け入れたりして、自分を水路付けていくのではないかって。
父が音楽家で、自分も音楽をやっている。
そうした状況では音楽を職業とした道を考えずにはいられないはずで、でもそれは嫌だとも感じている。
そんな中で、音楽家や大学の教授といったキャリアだけではない、音楽に関連した職業につくキャラクターが多数でてくる。
バイオリン奏者ではあるがロックバンドに所属する四条であったり、早苗の取り巻きの男性陣はいずれも奏者にはならずに音楽事務所や雑誌の編集者といった、音楽関連の職業人だ。
音楽を離れる選択肢も示唆される。
直樹は柔道もそれなりにできる。
本腰を入れればその道に進むことだって出来るかもしれない。
作中の大人はすべて、将来の直樹の姿であるように思える。
曽根にしろ瀬田にしろ須藤にしろ、すべて未来のサンプル像。
様々分岐していくと、彼らに行き着くことになる。
その分岐点に直樹は立っていることを初めて自覚したのだろう。
どの方向に行くか、多くの選択肢が提示されている。
それを選ばなくてはいけないし、諦めなくてはいけない。
選択肢が多いのは豊かだといえるかもしれないが、幸せかどうかはわからない。
選ぶことは、翻って諦めることでもある。
諦めてしまえばその道には後戻りできない。
選択とは辛いもので、自分の限界と無力さを噛みしめることにもなるし、人生が一度きりであることに恨めしくもなる。
直樹がどことなく、醒めてるのは自分の将来がこのままだと音楽に行き着きそうだが、父を見る限りそれはとてもいいものだとは思えず、その道に決めてしまうことに漠然とした不安を感じているからではないかと思う。
父と同じ人生を過ごすことには勘弁だという意識がある。
でも、他の選択肢にも興味を持てていない。
音楽以外の選択肢は作中では柔道しか挙げられていないし、勉強にも力が入っていない。
そんな中で、直樹が積極的になるときがあって、それは早苗が関わっている。
そして、早苗は直樹の向こうに父である春樹の姿を思い描いていたのだろうか。
早苗のことを直樹はどう見ていたのだろうか。
最終的に、直樹は決断をしている。
決断とは決めて断つことで、この道と決めて、他の道は断つことだ。
直樹はどうやら早苗を断ち、真衣を選んだ。
その選択の意味とは果たしてなんだろうか。
年上ではなく、同級生を選んだというのは、自立の象徴だろうか。
父の語りが思い出される。
幼馴染への後悔。
明らかに直樹と真衣の関係に重なる。
結局は、父の歩めなかった人生を歩むことに決めたのだろうか。
父とは別の道を歩むことで、父に託された願いを叶えようとするのか。
もしそうだとしたら、直樹はまた別の世界線での父であろうとしていることになる。
父と直樹の重ね合わせはあらゆる場面に顔を出しており、母も早苗も直樹に父の姿を重ねあせている。
そうして、父が後悔する別の選択肢における父の人生を、直樹は歩もうとしているのか。
直樹は父のことを好いていた。
そういうことだろうか。
それを選んだのだろうか。
そういうことだろうか。
なにをいまさら
メジャーなスポーツを題材としたマンガって中々描くのが難しいんですかね
マイナーなスポーツってその魅力を描くだけで、読者は知らないものを知る喜びで満たされるから描きやすいけど
例えば、サッカーだともうメジャーすぎてみんなサッカーに対するイメージがつきすぎてる気がして
例えば、主人公がその競技に出会って、成長していく、みたいな話はよくみるけども
サッカーでそれやると、みんなそれぐらい知ってるよってなったりするし
それぞれのイメージとことなる描写があると、違うわってなるし
メジャーなスポーツマンガはもう、主人公を初心者に設定するのはやめたほうがいいんじゃないかって
スラムダンクは花道がド初心者だったのは、世間がバスケをマイナーな競技として見ていたからであって
バスケが割とメジャーになってきた今同じような設定でやったら、うまくいかないんじゃないかと思うわけで
その意味では黒子のバスケが、スラダンを踏襲しつつも主人公がバリバリの経験者であったことはうまいことやったなと思うわけで
サッカー漫画もやっぱり主人公が初心者っていうのはあまり流行らないんじゃないかって思うわけで
ビーブルーズもアオアシもデイズもエリアの騎士もジャイキリもフットボールネーションも上手さに程度の違いはあれど、みんな経験者なわけで
もう世間はサッカーに対してある程度目が肥えちゃってるんじゃないかと思うわけで
だからこそ、レベルの高いサッカーを描くことがそのニーズに答えることになるんじゃないかと思うわけです
主人公を初心者にすると、色々ルールとか一緒に学んでいけるという気はするんだけど、もうみんなサッカーのルールなんて大まかに、ホント大まかには知ってるんじゃないかと思うわけで
ならば、ハイキューのようにレベルの高い試合を描くことで、どんどん読者のレベルが追いついてくるようにすればいいのにって思うわけです
だって、今更サッカーの初歩的なところから描かれてもじれったくなるわけで
少なくともサッカー経験者はそんぐらい知ってるよってなるし
別に主人公に感情移入させようと考えなくてもいいんじゃないかと思うわけです
その競技がすげえとかそう思わせられたらいいんじゃないかと
少なくともサッカーという競技の見方はもう醸成されつつあるのだから
もうワンレベル上の見方とか異なる見方を見せることに重きをおいたほうがいいのではと思います
ジャイキリは、監督という別の見方
フットボールネーションは、既存概念を打ち破る別の見方
アオアシは、ユースという場での育成という別の見方
さよなら私のクラマーは、女子サッカーという別の見方
サポルト!は、サポーターという別の見方
今更ド直球の初心者が成長していく物語なんて既視感バリバリで人気でないと思うんです
何を読んでこう思ったか、おわかりですね
映画という広告
「実写化決定!」という謳い文句を何度見ただろう。
去年辺りからだろうか、マンガの実写化が増え始めたのは。
数字を取ったわけではないので、どれぐらいマンガの実写化が増えたか等々はわからないのだけれども、恐らく皆増えたと感じていると思う。
「銀魂」を映画化は驚いた。
「ジョジョ」も驚いた。
「斉木」は、まあ、やるんだっていうか。
ともあれ、集英社の勢いが止まらない。
マンガを実写化する時には必ずと言っていいほど、原作ファンからの阿鼻叫喚が漏れる。
「原作の世界観が壊れる」だの「再現できない」だのと実写化が決まった時点で不満が溢れるのはよくあることだ。
ただ、その意見はいわば受け手としての意見でしかないわけである。
出版社の側から考えてみると、実写化も含めたメディアミックスにデメリットはないように思える。
実写化映画の内容がどうあれ、実写化された時点でもう成功なんじゃないか。
マンガにとってメディアミックスはもはや日常茶飯事で、さもなくば業界を生き残れないのではないかと思われるほどの定石というか、目指すべき場所という感じである。
人気が出たらアニメ化(後に映画化)、小説版やファンブックの刊行、ドラマや映画で実写化というのはメディアミックスの定番である。
その進展度合いによってその作品の人気度が測れると言ってもいい。
そこまでメディアミックスを重視するのはなぜか。
それは「作品の知名度を上げる」ということで説明がつくのではないか。
出版社における第一義の目標は当たり前だが本を売ることだ。
雑誌が売れて単行本が売れて会社も作家も儲かるのであればもうそれで十分といっていい。
宣伝などせずに売れるのであれば尚良い。
しかし、そこまで甘くないのが出版社を取り巻く状況だ。
雑誌の売上は落ち込み、何もしなくても売れる時代はとうの昔だ。
本を売るためにどの会社も四苦八苦している。
内容の充実を図ることはもちろん、如何に知らしめ興味を抱いてもらえるか、つまり宣伝にもとりわけ注力してきたはずだ。
その宣伝の1つとしてメディアミックスが選ばれているというわけだ。
宣伝は「今まで作品を知らなかった人に対して」知らしめることに意義がある。
マンガ好きの人には知られていてもそれだけでは小さい。
もっとマンガ好き以外にも作品の存在を知ってもらい、手に取ってもらうことを目的としているのである。
メディアミックスされているということは人気があることの裏返しである。
つまり、メディアミックスされたことをアピールすることで、受け手に作品の人気度を知らしめているのである。
帯やポスターに実写化を堂々アピールする。
それを見た受け手はその作品について大した情報がなくても「実写化されるのだから面白いのだろう」と勝手に結びつけてくれる。
そして、本を買ってくれれば、メディアミックスの効果アリということだ。
「銀魂」の作者も「劇場版 銀魂」に際して寄せていたコメントにも見られたが、「作品を多くの人に届ける」ことがメディアミックスに可能だということだ。
マンガ好きの人に留まらず、より大衆に届ける力がメディアミックスにはあるのだろう。
作者には作品使用料しかお金が入らないというが、メディアミックスによって本が売れ、その印税分で結局プラスになるという考えをしてるのかもしれない。
いずれにせよ、出版社にとってメディアミックスは本を売るための宣伝手法の一つであって、話題性を出すことが何よりも求められるのではないだろうか。
作品使用料が安すぎるとか愛のある映画化を!とかはまた別のお話。
二つの仲間
「敵と呼ぶな」
高校生の頃、所属していたサッカー部の顧問がよく口にしていた言葉だ。
「相手がいなくては試合はできない。だからこそ、リスペクトや礼儀を忘れるな」
という意味合いだった。
競技人口1人しかいない競技などありえない。
必ず自分ではない誰かと競い、順位を争うものだ。
「敵」と呼び、「敵」を倒して再起不能にして追い出してはその競技が立ち行かなくなる。
「相手」とは一緒に競技をする仲間のことだ。
その仲間と切磋琢磨し、成長しようとする。
仲間を意識することで、強くなろうとする。
「相手」のいない競技など、ないのだ。
そして、当然仲間は「相手」だけでなく、味方にもいる。
仲間のために勝とうとする。
自分ひとりでは出せないものを仲間のためにという思いの下に引き出そうとする。
それは個人戦においても、自分の味方でいてくれる存在に報いようとする意識がまた力を引き出そうとする。
同じチームの味方だけでなく、家族、友人それらも仲間だ。
仲間がいることを自覚したとき、個人戦からチーム戦へと変わる。
「ひとりじゃない」とはそういうことだ。
ちはやふる33巻の新はまさしくそれを体現した存在でなかったか。
志暢、千早という「相手」たる仲間と、藤岡東高校という「味方」たる仲間という、2つの仲間を自身の力に変えた新。
対して、「味方」たる仲間を持たず、絶対的な強さから「相手」たる仲間を持てずにいた志暢。
明暗をはっきりとつけるこの2人の対戦、新の勝利は必然であったのかもしれない。
2人を分かつこの差異に敗北を通して自覚した志暢の悲壮は計り知れない。
もはやひとりではこれ以上のモノは望めないから。
それでも、この物語には救いが溢れている。
名人位に君臨する周防、元々意識していた新に加え、彼女を一方的に意識し食らいついてくる千早を志暢は「相手」として受け入れたこと。
練習会に参加することで「味方」を増やす決意をしたこと。
これらが志暢をまた強くさせるのだろう。
そして、かっこよすぎた肉まんくんもいつか、報われますように…
どこを切り取るか
映画。
一般的に長編映画の時間は2時間前後だ。
果たして長いか、短いか。
「四月は君の嘘」が実写映画化。
正直、眉をひそめた。
配役に関してもだが、このストーリーを映画に収められるのかと。
この作品、マンガは11巻、アニメは22話(+OVA)なので本編20分×22として440分=7時間20分。
全部映画化しようとするには無理がある。
ごり押しで詰め込むか、要素を切り出して単純化するか、オリジナルな展開を混ぜるかの選択が迫られるが、基本的に原作を切り出して一通りストーリーをやり切ることが選ばれていた。
しかし、この作品は結構密度があるというか過不足がない。
サイドストーリーといった「読まなくても本編の理解には影響がない」という話があまりない。
どの話も大体、本筋のストーリーに関係してくる。
話が脇道に逸れることがないので、初めから終わりまで筋を通すためにどこを切り抜くかは相当苦心したはずだ。
まず、登場人物が絞られた。
出てくる人物は公生、かをり、渡、椿(+紘子、公生ママ)ぐらいなものだ。
柏木は映画の中では名前すら明かされないし、相座兄妹、絵見、三池は当然出てこない。
先輩も出てこないので椿が付き合うくだりも無し。
それでも、元々この主要人物だけで作られてる物語なので十分長い。
どのエピソードを減らすか。
そもそも公生とかをりの二人に注目するだけでも
出会い→かをり演奏→二人で演奏→公生コンクール→愛の悲しみ→くる楽祭→東日本コンクール→死別
と演奏シーンが多い。
演奏シーンは2人、特に公生にとっての転機となる場面ばかりなのであまり減らすことは考えられないし、音楽を通しての物語であるので音楽を描かないわけにはいかない。
実際、減らされたのは公生のコンクールとくる楽祭だった。
映画ではやはり公生とかをりの二人によりフォーカスをあてた物語にされていたように思えた。
それ以外の要素は極力排除していたようだが、椿の処遇は中途半端になったように思える。
椿が公生を意識する描写が少なく、告白が突然のように感じられたからだ。
原作では先輩と付き合い、破局することを通して椿は公生への思いをハッキリと自覚していくのだが、映画ではそもそも先輩がいないのでその過程は描けない。
突然のかをりの登場に公生の隣が奪われることに思わせぶりなシーンはあったが、公生家にいるかをりを見つけた場面と柏木と話す場面ぐらいではなかったか。
だから、告白が突飛に感じてしまったのだと思う。
「四月は君の嘘」は恋愛マンガだ。
音楽は大きな主題の一つではあるが、あくまで音楽は媒介であり、公生とかをりの物語であるように思っている。
だから、極端な話、この二人がいれば物語としては大きな破綻はなく成立するのではないかとさえ思う。
ただし、渡と椿の二人も重要な人物であって、椿は公生が好き、公生はかをりが好き、かをりは渡が好き、というようにこの片思いの連鎖が物語を動かしていくのだ。
公生はイケメンでスポーツができてモテてかをりにお似合いの渡を羨ましく思っている。
公生は恐らく美人で華があるかをりに自身は似合うだろうかとコンプレックスを抱いているのだろう、と自分は推測している。
だから勝ち目がないと思っていたはずで、公生は頑なにかをりのことが好きだと認めたがらなかった。
ただ、公生に自身の気持ちを自覚させたのは椿であり、公生は渡にかをりが好きなことを表明する。
この渡への公生の表明の階段のシーンは原作ににおいては渡が上、公生が下にいるのが象徴的で、公生にとって渡は(とりわけ恋愛面では)あはまりにも眩しい目上の存在だったことを表しているように思える。
それなのに映画では二人の位置が逆になってしまっていた。
そもそも公生を山崎賢人が演じている時点で、そんなコンプレックス抱きようがないだろとか思ってしまうものだ。
公生もイケメンじゃあ、渡に対して引け目感じようがないでしょうと。
こう考えるとやはり渡も椿も原作の展開ではやはり重要な役割をもつキャラだ。
それでも2時間に収めることを最優先にして公生とかをりにより重心を置いた作品にするならば、思い切って渡と椿の役割を削ることも一手だったように思う。
椿の片思い設定は無くしてしまって、生じる齟齬を修正することで原作の入りと結末は描けたのではないだろうか。
やはり物語全編を描くには2時間では短すぎたのだ。
前後編だったなら可能性もあったように思うが。
そこは予算等々、現場にしかわからないこともあったのだろう。
それにしたって、湘南を舞台にした理由はちとわからないままである。
何様
就活のバイブルにしていた「何者」。
そのアナザーストーリー6篇を納めた「何様」が8月の終わりに発売された。
楽しみにしていたが、思ったよりも早い。
「何者」の映画公開に合わせた発売日にするのかと思っていたのだけど。
単行本で割高だからそこまで売り上げにポジティブな影響が出ないと判断しての事だろうか。
文庫本なら安いし公開に合わせて発売すれば、映画と文庫双方の宣伝になり売れるだろうと考えたが。
一篇大体、50ページ。
まず、「水曜日の南階段はきれい」。光太郎の話。
光太郎が出版社に拘る理由は、海外の大学へ進学した好きな人が翻訳家になろうとしていて出版社に入れば再び会えるかもしれないからというのは「何者」で既に明らかになっていた。
その「光太郎が好きな人」とのエピソード。
夕子さんの夢に対する思いの強さと光太郎への思いの奥ゆかしさが愛くるしい。
誰にも言わずその夢を大事にしながら努力を続けられる強さ。
光太郎のゲリラライブを見る口実として掃除好きな人として振る舞う少女らしい気恥ずかしさ。
最後の卒業文集に書き残す光太郎へのメッセージが前向きだけどやるせない。
こっそりライブを見てしまうくらい好きなのに、そんな好きな人に勉強を教えるようになり、一緒に掃除するようになったのに、手を伸ばせば届く距離にいる好きな人を振り切ってまで夢をかなえることを選択した夕子さんの芯の強さがどうしようもないほど切ない。
彼女の生き方が「何者」における光太郎の出版社へのこだわりの強さにつながっている。
「何者」において光太郎は「夕子さんと再会するために出版社へ入社する」という「夢」を瑞月にしか語っていない。
高校生の頃とは異なり、外に固められる必要がないほど明確な夢ができていた。
本当、主人公を演じられちゃうキャラクターだ。
それにしても夕子さんを探し走る光太郎の描写が儚い結末を予感させる。
思いが溢れてくるリズム、切実さが痛々しいくらい伝わる。
手紙と地の文が交差する文章は、「何者」で瑞月が拓人に電車の中で家庭のことを語るシーンを想起させた。
読者の感情を徐々に徐々に揺さぶっていくのが本当に上手だ。
誰の話か言われなくてもわかりそうなタイトル「それでは二人組を作ってください」。
隆良も出るが、理香の話だ。
タイトルから嫌な予感がしていた。
理香に限らず自分にも当てはまる話だからどうもずっと心がざわざわしていた読み心地だった。
二人組を作るのが苦手。
部活仲間がいなかったら果たして自分はどうしていただろうか、背筋が凍る。
それにしたって中々ルームシェアを切り出せない理香の姿は不器用でもはや哀れだ。
「逆算」
誰の話かと思ってたらサワ先輩。
名字は「沢渡」だったのか、自分が忘れていただけか。
締め方にふっと安心できる笑いが出る。
結末の出来事がもしかしたら松本さんの「何かの」きっかけになるのかも、なんてのは考えすぎか。
「きみだけの絶対」
人によって何を拾うか、何を捨てるかは異なる。
その違いの存在を認識させ、あの人は何を大事にしているんだろう、お互いを想像し理解することで優しくなれれば、そんな思いだろうか。
まだまだ読み取り切れていない気がする。
正直、あまり釈然としていない。
「むしゃくしゃしてやった、と言ってみたかった」
読んでいてつらくてしかたがなかった。
正美の姿がほぼ寸分たがわず自分の姿と重なっていた。
正しいとされていることに忠実に従っていたけど、それでよかったのだろうか。
正しいはずなのに報われない。
正しくない人の方が評価されている。
そんな葛藤や疑念でいっぱいになってしまい爆発してしまう正美を、田名部を見ていられない。
自分がやりたいことよりも、(自分で推測した)親の期待を優先してきたのに、実際は親から喜ばれていないのではないか。
自分がしてきたことは無駄だったと分かってしまったとき、その絶望は想像を絶する。
田名部にしても「いい人」であることを「周りから」求められてきたのだろう。
他人から押し付けられる「田名部さん」の像に自分を押し込んできた苦しみが見える。
どちらも、逸脱してみたいという欲求を外部から封じ込められてきたのだろう。
しかし、その逸脱が許されるのは子どものときまでなのだ。
大人になってからでは、付随する責任が大きすぎて、遅い。
後で思い返す、田名部という名字の人物。
瑞月は誰が救ってくれるのか。
「目の前の男の舌を吸った」
なんて生々しくてどろどろしていて欲望にまみれているのだろう。
「何様」
眉毛カッターの彼。
拓人の隣にいた、笑いをとりまくってた彼。
そんな克弘は人事に配属され、誠実さとは何かを考える。
大した理由もなく入社した自分が、学生を取捨するなんて「何様」なのかと。
確かにまっとうな、自分に根ざした明確な理由をもって入社を希望する人がいるにも拘わらず、決してその人が内定をもらえるわけではない。
そんな人はかなり誠実な気がするのに。
誠実であるためには。
「誠実への一歩目も、誠実のうちに入れてあげてよ」
悩む克弘を、救う言葉。
いきなり100%なんて無理なのだ。
誰だって最初は初心者。
サポーターの真似事をする初心者をにわかと蔑む自称サポーターにも聞かせたい一言だ。
どれにしたって軽い気持ちでは読めない話だ。
朝井リョウは「何者」のときから、人が見て見ぬふりをしたい、後ろめたい感情や思考を引っ張り出して提示して「お前もこうなんだろう」と脅迫してくる。
おかげで自分の心の中に封じ込めていたものと対峙せざるを得なくなってしまい、読後はすっきりしないことも多い。
それでも、最後の君島の言葉はそんな人々に小さな救いをもたらす気がしている。