どこを切り取るか
映画。
一般的に長編映画の時間は2時間前後だ。
果たして長いか、短いか。
「四月は君の嘘」が実写映画化。
正直、眉をひそめた。
配役に関してもだが、このストーリーを映画に収められるのかと。
この作品、マンガは11巻、アニメは22話(+OVA)なので本編20分×22として440分=7時間20分。
全部映画化しようとするには無理がある。
ごり押しで詰め込むか、要素を切り出して単純化するか、オリジナルな展開を混ぜるかの選択が迫られるが、基本的に原作を切り出して一通りストーリーをやり切ることが選ばれていた。
しかし、この作品は結構密度があるというか過不足がない。
サイドストーリーといった「読まなくても本編の理解には影響がない」という話があまりない。
どの話も大体、本筋のストーリーに関係してくる。
話が脇道に逸れることがないので、初めから終わりまで筋を通すためにどこを切り抜くかは相当苦心したはずだ。
まず、登場人物が絞られた。
出てくる人物は公生、かをり、渡、椿(+紘子、公生ママ)ぐらいなものだ。
柏木は映画の中では名前すら明かされないし、相座兄妹、絵見、三池は当然出てこない。
先輩も出てこないので椿が付き合うくだりも無し。
それでも、元々この主要人物だけで作られてる物語なので十分長い。
どのエピソードを減らすか。
そもそも公生とかをりの二人に注目するだけでも
出会い→かをり演奏→二人で演奏→公生コンクール→愛の悲しみ→くる楽祭→東日本コンクール→死別
と演奏シーンが多い。
演奏シーンは2人、特に公生にとっての転機となる場面ばかりなのであまり減らすことは考えられないし、音楽を通しての物語であるので音楽を描かないわけにはいかない。
実際、減らされたのは公生のコンクールとくる楽祭だった。
映画ではやはり公生とかをりの二人によりフォーカスをあてた物語にされていたように思えた。
それ以外の要素は極力排除していたようだが、椿の処遇は中途半端になったように思える。
椿が公生を意識する描写が少なく、告白が突然のように感じられたからだ。
原作では先輩と付き合い、破局することを通して椿は公生への思いをハッキリと自覚していくのだが、映画ではそもそも先輩がいないのでその過程は描けない。
突然のかをりの登場に公生の隣が奪われることに思わせぶりなシーンはあったが、公生家にいるかをりを見つけた場面と柏木と話す場面ぐらいではなかったか。
だから、告白が突飛に感じてしまったのだと思う。
「四月は君の嘘」は恋愛マンガだ。
音楽は大きな主題の一つではあるが、あくまで音楽は媒介であり、公生とかをりの物語であるように思っている。
だから、極端な話、この二人がいれば物語としては大きな破綻はなく成立するのではないかとさえ思う。
ただし、渡と椿の二人も重要な人物であって、椿は公生が好き、公生はかをりが好き、かをりは渡が好き、というようにこの片思いの連鎖が物語を動かしていくのだ。
公生はイケメンでスポーツができてモテてかをりにお似合いの渡を羨ましく思っている。
公生は恐らく美人で華があるかをりに自身は似合うだろうかとコンプレックスを抱いているのだろう、と自分は推測している。
だから勝ち目がないと思っていたはずで、公生は頑なにかをりのことが好きだと認めたがらなかった。
ただ、公生に自身の気持ちを自覚させたのは椿であり、公生は渡にかをりが好きなことを表明する。
この渡への公生の表明の階段のシーンは原作ににおいては渡が上、公生が下にいるのが象徴的で、公生にとって渡は(とりわけ恋愛面では)あはまりにも眩しい目上の存在だったことを表しているように思える。
それなのに映画では二人の位置が逆になってしまっていた。
そもそも公生を山崎賢人が演じている時点で、そんなコンプレックス抱きようがないだろとか思ってしまうものだ。
公生もイケメンじゃあ、渡に対して引け目感じようがないでしょうと。
こう考えるとやはり渡も椿も原作の展開ではやはり重要な役割をもつキャラだ。
それでも2時間に収めることを最優先にして公生とかをりにより重心を置いた作品にするならば、思い切って渡と椿の役割を削ることも一手だったように思う。
椿の片思い設定は無くしてしまって、生じる齟齬を修正することで原作の入りと結末は描けたのではないだろうか。
やはり物語全編を描くには2時間では短すぎたのだ。
前後編だったなら可能性もあったように思うが。
そこは予算等々、現場にしかわからないこともあったのだろう。
それにしたって、湘南を舞台にした理由はちとわからないままである。