横浜ロマンスポルノ '16 ~THE WAY~

2年ぶりの横浜スタジアム。1日目。

雨予報に反してきつい日差しが肌を刺してくる。物販の列を探すと噴水付近に看板を持って立つスタッフを見つかる。そこから前を目で辿ると、思わず眉をひそめたくなった。階段横まで伸びた列は折り返してGATE7手前でまた折り返し階段の先へと続いているようだった。何か別の列かと思いたかったがそうでもないらしい。15時30分に並び始めたが開始に間に合うのかと心配で仕方がない。

開演まで30分を切るとちらほら列を離脱する人が出てきて前へ流れるようになったのだけれど、途中で入場待機の行列とぶつかり大混雑。物販の列だと思ってたら入場列になっていて、慌てて列を探し直し並んだところで物販列を締め切られた。ギリギリ。ちなみに並んでいる最中に虹が見えた、東横インの上空。結局、17時過ぎて購入完了。急いで席に走る。

席はスタンドBAY SIDE。席に辿りついたときには小雨がぱらぱらし始めていた。案の定というかやっぱりなというような空気が漂っていたような気がする。まだ演奏は始まっていない。スタッフが楽器の調整をアリーナ席ど真ん中のステージでおこなっていた。PA上のステージは二年前と同様だが、トロッコはないようだ。TシャツはLサイズでも結構大きい。

17時15分。始まりの合図。どのように二人は登場するのか。ステージに真ん中に後ろにと探していると、歓声が沸く。PA席後ろから歩いて登場。さながらリリーフ投手のよう。昭仁はライト側、晴一はレフト側から歩いて真ん中のステージへ向かう。昭仁の赤い上着がカープのユニフォームに見えないこともない。晴一は真っ黒ノースリーブ。

一曲目、「ハネウマライダー」。昭仁の声と晴一のアコギだけでライブが始まる。「横浜ということで」2曲目、「横浜リリー」。ところが早速最初のサビで歌詞を間違える。そんな昭仁のことを途中から辿りついたサポートメンバーがニヤニヤしながら見ていた。くわG、真助、康兵が加わり「サウダージ」。真助が立ちながらドラムを叩く姿が新鮮でかっこいい。昭仁もシェイカーを揺らしながら歌う。「9月とはいえまだ暑い、彼らのコーラスで夏を感じていきましょう」と康兵やくわG、晴一が歌い始める「NaNaNaサマーガール」。「この3万人が一緒になる光景を見たい、みんなの歌声を響かせてくれ」と「アゲハ蝶」。アコースティックはここまで。

すると、ステージから森男、nang-changの演奏。その演奏の間にメンバーは前のステージへ移動。前5曲の余韻を吹き飛ばさんとする「敵はどこだ?」が炸裂する。ステージ上のモニター映像が凝っていた。その熱量を持ったまま「2012Spark」「ミステーロ」。一気にボルテージを上げてきた。

MCでは触れられずにはいられないのだろうカープの話題に。「カープが強いね!DeNAの本拠地なのに申し訳ないけど!」。それいけカープのビデオ撮影のエピソード。晴一はポルノでは見せないテンションで歌い、叫んだらしい。それを見たければズムスタに行くしかないらしい。見たいと観客にせがまれるも結局そのテンションの高さは見せてくれなかった。カープの話ばかりしても仕方ないから、とベイスターズ広島県出身・石田投手の入場曲がアポロであることを話す晴一。横浜スタジアムに観戦に訪れた際、石田投手が先発でアポロが流れた際は誇らしげになったらしい。雨について、晴一は「直前まで晴れていたのに、なにこの思わせぶりな感じ。ウォータープルーフのギター探そうかな」とぼやく。昭仁もリハで日焼けしたらしい。

康兵がアレンジしたという「ルーシーから微熱」、途中の電子声は晴一が担当していた。「ギフト」と続き、「久しぶりにやります」という「EXIT」。「愛が呼ぶほうへ」の後の「My wedding song」はモニターに流れるアニメーションビデオがNHKで流れてもおかしくないような優しい雰囲気をもっていて印象的だった。

「シスター」を彷彿とさせるドラムロールから再び真ん中のステージへと移動。同時に衣装チェンジ。昭仁の上着は黒へ、晴一はグラサンにライダースジャケット、その姿に笑い声が起きる。ギターが届くまで時間がかかり、その間晴一はエアギターを披露していた。いつもよりロックンロールに、と「ヒトリノ夜」へ。森男はコントラバスを弾いていた。いつもとは異なるアレンジ、それでもいつものような盛り上がりで「Mugen」。ステージに戻り、タオルを回して「Ohhh!!! HANABI」。手拍子を伴い「オー!リバル」。2曲余も掛け声が前回のツアーより揃っていて大きかった。畳みかけるように「メリッサ」テープが飛ぶ。ラジオジングルが流れて「久しぶりにやっちゃうよ!」「ミュージック・アワー」。

暗転し、昭仁が照らし出される。感謝と所信表明。満を持して「THE DAY」。観客が腕に着けたシンクロライトが光り出す。そういえばColdplayが似た演出をやっていたはずだ。テーマカラーである青や赤、白、黄と一帯が一色に染まって変化していく景色が壮観だった。曲の終わりと同時にモニターへTHE DAY」と文字が浮かび上がる。ここまでできるのか。夜空に何か飛んでいたのが見えたけど、ドローンだったらしい。

アンコール。昭仁もギターをもって登場。「新曲やります!」タイトルは「LIAR」。どこかラテンのリズムを感じさせる曲。LEMF1999以来の「エピキュリアン」。メンバー紹介。野崎兄弟がアルバム出したことに触れる昭仁。森男が何か叫んでいた気がするけど、なんて言ってたんだろう。「買ってねー!」とかかな。ラスト一曲「ジレンマ」。統率感のないライトの色が曲の騒がしさ、ハチャメチャさに拍車をかける。そのまま終わってしまって「あれ、PA席ステージ来てくれないのか」とちょっと拍子抜けしていたところだったけれど、お辞儀した後に、「ごめん、忘れてた!後ろ行ってないから今から行くわ!」

そう言って歩いて移動しPA席ステージへ。晴一が渡されたギターがプロデュースグッズのギターに見えたけどどうなんだろう。音量調整に時間をかけて「16年前に作った曲で、初心を忘れないように」と何を演奏するのか、アポロではないのか、と考えていると演奏が始まる。「ダイアリー00/08/26」!「サボテン」のカップリングをライブ最後に持ってくるとは!正直歌詞思い出せるほど聞いていなかったけど、これはこれで大団円のような雰囲気でラストに合う曲だと感じた。

終始、雨が止むことはないライブではあったけど、ポルノらしいなと思ってしまった。シングル曲ばかりのセトリはやはり単発ライブだから観客の間口を広めることを考えてのことだろう。そこにアレンジや演出で変化をつけることでコアファンにも楽しんでもらえるように作られていたんだと思う。ちなみに最後の「後ろ行くの忘れてた」は2日目もあったらしいのでどうやら演出っぽい。特にシンクロライトは屋根がないスタジアムならではの演出で、今後も見たいと思わせる取り組みだった。これからもどんな新しくチャレンジをしていくのか楽しみ。

雨はスタジアムを出ると止みました。さすが。

評価の答え合わせ、迎合

直木賞に輝いた「海の見える理髪店」。

短編集らしいし手にとってみた。

最近、長編に挑む気力が中々湧かないもので、短編集ならサクッと読めちゃうかなという魂胆。

 

いつからか、物語を読んでいると感情移入しすぎるようになった、気がする。

登場人物の状況に自分を置いてみてどう感じるかをしばらく考えるようになった。

それをつまりは余韻と呼ぶのかもしれないけど、そのせいで読後もかなり感情が引っ張られて戻ってこなくなることがままある。

特にそれは切ないストーリーに顕著で、読んだすぐ後にアップテンポの曲とか聞けない。バラエティ番組とか見られない。

とにかく浸って中々乾かない。

 

この作品の各話を読み終わった後も、自分の内面がじんわりと切なさや儚さ、少し見える希望に濡れていくような感覚を味わった。

どの話も心を持って行かれてしばらく当てられるように、何かを残していく。

短編集とはいえ、読後の各話の存在感は際立つ。

短編であることが、内容の薄さに結び付けられるわけではない。

 

そんな作品が直木賞に選ばれたわけだが、読み終わってから改めてその事実を鑑みると肩透かしを食らった気になる。

おこがましいのだけど。

自分の中で直木賞とは、テクニカルで、ストーリーテリングに優れていて、構成が練られており、要するに技術的に優れた作品に贈られるものだというイメージが形成されていた。

何を技術と定義するかはイマイチ説明できないけれど、「何者」や「容疑者Xの献身」といった過去の受賞作を見てそういう印象が築かれている。

「海の見える理髪店」はそういう技術的な要素があまり見られなくて、短編集であるが故か1つの技術が大きな驚きを産まなかったという感触がある。

もちろん前提として自分はまだまだ文学見習いもいいところであって、凄みをただ感じ取れなかっただけという可能性がある。

 

いや、そう捉える他ない。

 

直木賞選考委員は宮部みゆきなどといった著名な作家さんで構成されている。

確かな目がある人たちが選んだ作品が優れてないなどと声を大にして言えるだろうか。

所詮、自分は大した眼力も読解力もないペーペーである。

そんな自分が大作家陣に対して「お前らも大したことないな」なんて言えるわけもなく。

見落としがあるのだろう、おれの見方が悪かったのだろう、そういう方向へ思考が向くのは当然だと思っている。

(文学に間違いも正解もないかもしれないが)間違っているのは自分だと、そう解釈するのが自然だと。

委員会の評価は絶対。

それに賛同できない自分は間違っているのだ。

だから、委員会の方々に文句を言おうなんて、そんな、滅相もない。

まだまだ精進します。

 

これから先、もし、その絶対に楯突こうと思えた時は、その時は、自分なりの評価基準が定まった時と言えるのかもしれない。

カテゴライズ

竹宮ゆゆこ著「砕け散るところを見せてあげる」を読んだ。

とらドラ!」を書いた人らしい。

カバーイラストは浅野いにお

帯の推薦文には伊坂幸太郎と市川沙耶。

レーベルは新潮文庫nex

どうやらライトノベルではないらしい。

 

東京駅の三省堂書店での推されようを見たときには、ライトノベルだと高をくくったものだった。

イラストカバーにライトノベル上がりの作家。

判断材料はそれだけだったけど、ライトノベルを大して読んだことのない人間がそう思ってしまうには十分だった。

長いタイトル、特徴的すぎる登場人物の姓名、イラスト…

大体このあたりを見ると「ラノベっぽい」と感じることが多いかもしれない。

だからこそ、ライトノベルが一般の文庫と同じ棚でここまでプッシュされるものだろうかと不思議に思ったのだった。

 

サイトを見てみると、新潮文庫nexというレーベルはライトノベルではない、と新潮社は言っている。

若者向けではある。

だが、それでもライトノベルではないと主張している。

イラストカバーでライトノベル上がりの作家を起用してはいるけど、ライトノベルではないのだと。

果たしてライトノベル、とは何なのだろうか。

ライトノベルというカテゴリーは、どのように分類されているのだろうか。

 

上記の要件や内容まで考えてライトノベルか否かというのを論じることはできるかもしれない。

しかし、今回の場合このカテゴライズは出版社側の主張するものであるということを注視せねばならない。

掲載雑誌やレーベルで対象読者層を限定するというのは今に始まったことではない。

少年誌があり、青年誌があり、少女誌があるようにマンガの世界ではごく当たり前のことである。

ライトノベル新潮文庫nexも同様のことが当てはまる。

小説というのはどこか堅苦しい印象を受けるせいか少年少女たちには敬遠されがちなのではないか。

だから、その子たちに読んでもらうためにライトノベルと謳い、手に取るハードルを低くする。

イラストをつけて、キャラクターを特徴的にして、会話を多く、かっこよく(偶にイタイタしく)したり。

ライトノベルは若者の読者層を想定した、マーケティング戦略といえよう。

 

そんなライトノベルという語はもはや一般世間に浸透して久しい。

おかげでライトノベルは固定的なイメージがつきすぎてしまった。

同時に固定観念もある程度染みついてしまっているように思える。

ライトノベルはオタクが読むものだ」というように。

このようなイメージがつきすぎると、読者の選別が勝手に起きてしまう。

オタク文化はまだまだ大衆文化ではないだろう。

ライトノベルと呼ばれている本を手に取ることにはネガティブな感情が付きまとうだろう。

ライトノベルというカテゴリーはより大衆向けの作品には合わないものだ。

 

だからこそ、新潮社は新しい若者向けのレーベルを打ち出したのだろう。

新潮文庫nexはより大衆寄りの若者に向けている。

推薦文のラインナップを見てもそれが見て取れる。

ライトノベルはもはや若者向けではない、ライトノベル好き向けのカテゴリーだ。

だからこそ、ライトノベルではないと口を酸っぱくしている。

ライトノベルほど、読者層を狭めないために。

いちごといちご味

マンガはかなり好きだからずっとだって読んでいられる。
マンガではよく感情移入させられるかどうかを作り手は重視しているという。
確かに、感情移入してしまうということはそれだけ夢中になってしまうということだ。
つまり、面白いということになるわけで。
どこにも感情移入しないで客観的に読んでいる状態では、全く心が揺さぶられるわけもなく。
決して面白いとは泣けるとか笑えるとかそういうポジティブなものだけではなく、苦しいとか辛いといったネガティブな感情まで含めて感動させることを言うのだろう。

感情移入させるには、リアリティは欠かせない。
たとえファンタジーな世界でもSFでも、どこか他人事に思えないようなものが描かれてなければいけない。
それは言葉遣いであったり、考え方であったり、動きであったり、モノであったり。
現実にいる読者との共通点を増やすことがリアリティにつながり感情移入への入り口となる。
ただ、リアリティはリアルとは似て非なるものであって。
完全にリアルなものを描いてしまうとそれはリアルとは乖離してしまうというジレンマ。

マンガの中で描かれる教師っていうのはいつも出席簿を持っているイメージはないだろうか。
現実の教師を考えてみれば、如何なる時も出席簿を肌身離さず持ってるなんてありはしない。
なぜなら、大体の教師は担当教科を持っていて授業をしているはずだから出席簿なんて手にしてるのはホームルームの時ぐらいだ。
それでも、マンガで描かれる教師は出席簿を欠かさない。
出席簿は教師の象徴であり、それを描くことで読者は教師だと判別できるからだ。
出席簿をもった教師はリアルではないかもしれない。
けれど、おかげで読者は教師だと認識することができ、リアリティを感じることができる。
フィクションは現実世界ではないのだから、リアルに描く必要もなければ、リアルに描いてはならないのだ。

生身への逆行

シャラポワがドーピングをしていた。
本人の主張では禁止薬物指定されていたのを知らなかったとのことだけど。

ただ、スポーツ選手がある程度薬を用いるのは茶飯事なのかもしれない。
メルドニウムだって禁止薬物に指定されたのは今年に入ってから。
それまでは普通に使っていても問題なかったわけで。
そりゃ使うか。
もちろん、私は何の力にも頼らない!という人もいるだろうけど。

ただ、このご時世、綺麗サッパリ生身である人間などいるだろうか。
自分だって風邪薬を飲むし、サプリメントを飲む人だっているだろう。
何かしら薬を服用したりしていれば自分で賄えない物質を体内に放り込んでいることになる。
いや、その論理だと食べ物食べて栄養取るのも当てはまっちゃうか…
そうなると薬とはなんぞやって話になるなあ…

その競技の結果に影響を及ぼすものという基準でアスリートに薬物は禁止されているということだろうか。
思えば、人間の身体はどんどん代替可能なものになりつつある。
差し歯とかも含まれるだろうし、義手など言わずもがなだ。
攻殻機動隊のようなSF世界がいよいよ現実味を帯びてきたのだろうか、なんてわくわくするのだけど、そんな世界でアスリートはどこまで存在しうるだろうか。
生身たること、を要求されるアスリートはこの時代に対してはっきりと対抗している、いや取り残されざるを得ない。
義体や電脳が主流となった世界で、生身の身体の価値が薄まる世界で、アスリートという身分は保証されるだろうか。
かえって生身の純潔さにより逆説的にその価値は増すのだろうか。
いつまでアスリートはこの社会の潮流に逆行できるだろうか。

ただ、パラリンピアンはアスリートかって言われると難しいね…

モノの衰退の因子

電子化されたデータって、モノと呼んでいいのかな?

コンテンツではあるけど、モノではない?

手に取れないものはモノじゃないのかな。

だとして、手に取れるものはモノだとして、取れないのはモノじゃないとして。

本とかDVDとかもモノだ。

見る内容こそデータではあるけど、容器には入ってるからモノ。

電子化ってのはデータを容器にいれないことだろうか。

容器に入れずに可視化できるようになったのが電子化。

データを買うようになった時代。

CDとか売れなくなったけど、音楽に対しては需要は減ってない(はず)。

だから、DVDとか本とかの容器が売れなくなってもデータは売れるはずだ。

でも、電子データはその分売れるようになっただろうか。

データ単体で売れているだろうか。

売れてない前提で話を進めるけど。

需要は変わってないのに売れなくなったってことはそのギャップを埋める別の方法ができたってわけで。

それは例えば、YouTubeで見れるようになったりネット配信が始まったりってことのはずだけど。

ただそれだけではそのギャップは埋まっていないような気がする。

データの違法コピーとダウンロードの横行がそれを埋めているような気がする。

だって、金がかからない方法があったら皆そっちを選ぶと思う。

先にやっている人がいる、みんながやっている。

そんな状況で普通に金を払おうとするのなんて馬鹿馬鹿しく思えてしまうはずだ。

対価として金を払っている自分が正しいはず。

なのに、違法でありながらほぼ黙認されているような方法で無料で自分と同じ楽しみを享受している人々が周りにたくさんいたら、どうだろうか。

自分もやってしまおうとなるはずだ。

罪の意識がどこから来るかという話にもなるけど、それはさておき。

モノってのは全く同じモノを複製はできない、というか手間だし。

動画とかも無料で(違法の場合)見れちゃうからDVDとかあんまり買わなくなったんだろうなあ。

いや、本当に売り上げ減ったのか知らんけど。

まあ、値段の高低も関係あるのかな。

DVDとかは値段高いしそれをタダで見ちゃうのはちょっと罪悪感あるのかもね。

その点、音楽はシングルCDだと1000円程度、iTunesだと一曲200円前後だから安い。

それぐらいの値段ならいいかって思っちゃうかもね。

それ以上の価値は絶対あるはずだと思うけどね。

音楽も身近にありすぎて、その重要性に気づけないんだろうね。

失われて初めて気づく、ありがちなヤツ。

 

まあこの考えが多少なりともあてはまるとして、ネットでの違法DLを根絶は一つの解決策になれるのかな。

データを手に入れる手段を失った人はどうするかな。

電子データを買うなりモノを買うなり対価を払うように、正当な方法をとるようになればいいけど。

ただし、最悪なパターンはそのコンテンツ自体を諦めて離れてしまうことかも。

20160302 FANCLUB UNDERWORLD 5 (Zepp DiverCity)

向かったはZepp Divercity、ライブハウス。

ポルノグラフィティのファンクラブイベント。

ライブハウスで!ポルノグラフィティ

アリーナをも満員にするくせに、2000人近くしか入らないライブハウスでライブだなんて!

さぞかし近くで見れるのではないかとソワソワしてたけど。

乗った高速バスが思ったほか時間かかって、東京駅の乗り換えに手惑い、ロッカーなくて無駄足踏んだりで結局会場入りしたのは開演5分前の19:25。

過去三回のライブは全て全席指定だったからね。経験不足ですね、ライブハウスの。

それでも、十分近かったけど。

最前列はもう触れられるレベルだったのだろうなあ。

 

時間になって、諸注意を読み上げているのは昭仁と晴一。

途中、ボケが入ったりもして。

DAIGOのモノマネはもう似せる努力をあきらめていた感はある。

サポートミュージシャンに続いて、観客の呼びかけで2人が登場。

緩い感じで入っていくからこれがライブとは違うなあって思ってたら、晴一が

「今日、本間さん来とるらしいで」

どよめく。

それを合図にいきなり放たれる「Jazz up」

惑ワ不ノ森以来。

アルバムの順番ごとに曲が披露されていく、完全に「ロマンチスト・エゴイスト」再現ライブ。

去年のサマソニManic Street PreachersがHoly Bible再現ライブやってて、「昔のアルバムを順番もそのままでやるってファンはたまらんだろうな」って思ってたけど、なるほどなあ、やばいっすわ。

「Century Lovers」は恒例の掛け声を晴一も担当。

曲にアレンジがかかって、掛け声も「イェイイェイ!」ととても新鮮だった。

次は「ヒトリノ夜」。なんだけど、ファンの要望でインディーズバージョンを演奏。

昔のその音源がYouTubeに上がってらしく、昭仁も把握してた。

なんなら晴一はそれ聞いて音取りしたらしい。「クロに近いね」。

ちなみに歌ってる最中は昭仁譜面台をガン見。

GTOの主題歌にしては歌詞が弱いって理由で現状のものになったと。

で、「ライオン」→「憂色~Love is you~」

「憂色」では晴一プロデュースグッズのテレキャスが登場。

値段は10万近くするけど、曰く「売れてる」んだって。かなり不安だったらしい。

その晴一は「なんでスリッポンなん?」って疑問をぶん投げる。

「ボーカルのグッズって何作ればええんか迷って…」

それでも、当初はパスタソースにしようと思ったって。

ここで、2人は来ていると聞いた本間さんをステージに呼び出す。

本間さん、客席後ろ中央の機械あるとこに普通におった。

そんな近くにおったんかい。

本間さんはプロデューサーで作曲・作詞・編曲とポルノにホント深くかかわってた御仁。

ステージにあがってデビュー当時や「ロマエゴ」の曲にまつわるエピソードが訥々と語られる。

この話が結構弾んで、晴一はギターを一旦外したし、森男は康平の椅子に座ってた。

完全に居酒屋トーク。ぶっちゃけそれだけでもずっと聞きたかったけど。

本間さんは喋るだけじゃ飽き足らず、「Heart Beat」のピアノを弾いてしまう。

これが一番盛り上がったかもしれん。

そのまま「マシンガントーク」で、モンキーダンスかと思いきや、一昨年のLEMF1999で首振り回しすぎて本当に首をおかしくしたらしく、今回はナシ。

代わりにお役御免となった本間さんが両手を上下に振り回しながら袖にはけていきました。

3連続目が「デッサン#1」。

昭仁の歌唱力の高さを感じた。

キー高いのに外さないし、量も凄い出てる。

やっぱ歌うまいなあ。

で、デビュー曲の「アポロ」なんだけど、ここはアレンジ。

昭仁のアコギと晴一のなんだろうね、アコギっぽいんだけどちょっとだけ小さくしたようなギター。

昭仁、ラストサビ前の歌詞を間違える。

終わった後に一人でTake2やってた。

「『このままのスピードで世界が回ったら』の『まーわったら』が歌えんくなったんよね、なんでじゃろ…」

そしてまた三連チャン。

「ラビュー・ラビュー」は相変わらずしゃれてる。

この曲から漂うジャズみたいな雰囲気すごい好き。

いつもは大トリの「ジレンマ」がここ。

「リビドー」のパワーはかなり弾けた。

ラストを飾る「ロマンチスト・エゴイスト」で大団円。

BlurOasisみたいなUKロックも合うんではないかと作られた曲だそうで。

確かに言われてみればOasisっぽいような、「Don't Look Back In My Anger」みたいな。

サポートミュージシャンがはけて恒例の生声でシメかと思いきや、ライブハウスっぽく「記念写真を撮りましょう」というファンの夢が実現。

そして、カメラマンはnan-chang、一眼レフをもって登場。

やはり最前列に行けてればと思わずにはだね…

nan-changのGoProでも撮影のはずが、GoPro壊れる。

「今日は何かある日じゃね」。

 

最高だった。

あの狭い空間でポルノグラフィティが見れるとは。

これなら頑張れるかも。頑張らなくては。