生きてるだけで、愛
前情報をほとんど入れなかった。
菅田将暉が編集者の役で鬱で過眠症の彼女と同棲していること。それだけ。
モノローグで始まる。
寧子はこれで鬱なのか。ひどく不機嫌でよく津奈木は好きになったものだ。正直、めんどくさい女としか思えない。
津奈木は無気力に見える。やりたくもないゴシップ誌の編集。仕事は積み重なる。ひどく感情を出さない。
寧子にとってのお姉ちゃんはどんな存在なんだろうか。
お互い悪態を突きながらも弱ったときに頼りたい存在であり、嬉しい出来事があれば知らせたい存在。
この日常に酷く不愉快を感じた限界で、転機が訪れる。
物語を動かすのは大抵、色恋沙汰と相場は決まっていて津奈木の元カノが接触してくる。
しかし、こいつも大概で、寧子に心配される始末。
精神病を患う(実際、鬱なのか本人がそうだと思いこんでいるだけなのかはわからないが)人間よりも津奈木に未練たらたらな人間のほうがイカれている。
そうすると、急に寧子への嫌悪感は引っ込んで、同情の念が湧いてくる。安藤のほうがよっぽどおかしい。
安藤もある意味精神病患者である。
カフェバーでは働くことになった寧子。
オーナーも含めて器が広いというよりは興味が程よくない。
過剰な心配をすることなく、当然のものとして捉えているからか。
寧子と反対にすり減っていく津奈木。
嫌な予感をさせる。
ウォシュレットが怖い寧子。
それは一般的な考えではなくて、理解されないことで我に返る寧子。
多分、寧子は全てを理解されたい。
寧子は全てに本気すぎる。楽をしない。
手抜きをしないで理解されなくても気にしない、なんてことができない。
些細なことでも理解されたい。
寧子は全てを曝け出して相手にもさらけ出すことを求める。
それが否定されるということは、何も纏わない自分の根幹を否定されるということだから耐えられない。
全裸になった寧子。服を着たままの津奈木。
本音しかなかった者と、やり過ごしてきた者。
最後のシーンはそういう表現だったんだと思う。
恋人という依存関係。
二人で一つじゃないが、自分と相手の境界が曖昧になって切り離せなくなっていく関係。
異類婚姻譚で描いたのは夫婦の関係。
今回のはやがて別れるであろう恋人の関係。
依存しなくていい(できない)関係は多分恋人である必要がない。